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さやか「さやかちゃんイージーモード【中編】最初から→
さやか「さやかちゃんイージーモード
206 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:48:39.11 ID:idX9ZfJ+o
久兵衛という男について調査せよ。接触を図れるなら、すぐにでもそうしたい。だが、あくまで非公式に。
杏子は本社に帰るなり、情報部の職員にそう伝えた。
この街に来たとき、久兵衛に嫌味を言われたが、それ以来杏子は久兵衛を見ていなかった。
「やあ、久しぶりだね。 なにか用かい?」
久兵衛はいとも簡単に捕まった。
こういう時、組織力というのはやはり重要だと杏子は思う。
「あんたんとこで使っているグリーフシードってクスリの事を聞きたいんだがね」
「なんだいそれは? 僕は知らないね」
杏子はほむらから秘密裏に入手したグリーフシードのサンプルと資料を出して、
「これさ、あんたんとこで作っているって、調べはついてんだ」
と言ってやった。
207 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:49:15.22 ID:idX9ZfJ+o
「君のところでも使いたいのかい? 使用料は高く付くよ」
「違う! んなもん使うか!!」
「じゃあ、グリーフシードに何の用があるんだい?」
「解毒剤の有無が知りたい。 あるなら分けて欲しい」
「理由を教えてよ」
「話す必要があるのかい?」
杏子はあくまで強気だったが、その調子に久兵衛が立ち上がり、
「僕は帰ってもいいんだよ」
そう言われてしまうと、手の内を見せないわけには行かなかった。
「あんたんとこで働いている従業員を助けたいんだ…」
「美樹さやかかい?」
杏子は答えなかった。
208 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:50:04.45 ID:idX9ZfJ+o
「今グリーフシードを服用しているのは見滝原市にある12店舗で彼女だけだからね、それでなぜさやかを助けたいのかおしえてよ」
杏子は俯いた。好きだから、なんて言える筈がない。
「話す気が無いなら僕は帰るけど、いいのかい?」
杏子は立ち上がって久兵衛を引き止めた。
これは既に交渉ではなくなっている。 杏子はそう思った。
「だ…誰かを助けるのに、理由がいるのかよ!?」
「当たり前じゃないか。 君のところにはそれ相応のものを支払ってもらうし、こちらも色々リスクがあるしね。」
杏子は、理由を答えることができないでいた。
「ははーん、君はレズだね。 さやかのことが好きなんだろう?」
「うるせえ!!」
209 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:50:53.86 ID:idX9ZfJ+o
久兵衛は鎌をかける為にそう言ったのだが、顔を赤らめた杏子のあからさまな反応に逆に驚いた。
「へえ、まさか…君がねえ…君の交渉術はなかなかのモノと聞いていたからこっちも気を引き締めて来たのだけど、拍子抜けだね。
やっぱり人間は恋をすると駄目になるね」
そう言いながら、久兵衛はマミのことを考えていた。
あの女も、きっと僕の事をダシにされるとこんな風に駄目になるのだろう。
僕は、そんな風にはならない。 だってバカバカしいじゃないか。
他人のために、こんなにも弱くなるなんて。
黙りこんでしまった杏子に、久兵衛は要求を突きつける。
「本当は君のところの見滝原市進出を防ぎたいんだけど、それは話が大きくなりすぎるね。
この取引は会社を通さず、僕が個人的に行いたいからね。
会社はグリーフシードの事を表に出したくないから、君のとこが吸収合併でも受け入れない限り交渉には応じないだろうし」
210 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:51:39.12 ID:idX9ZfJ+o
「ああ…分かった」
「まずはお小遣いに一千万程もらおうか」
「ばっ…馬鹿野郎! ふっかけてんじゃねえぞ!!」
「はぁ…美樹さやかへの愛は君にとってその程度だったのか…失望したよ」
久兵衛の心から残念そうなその声に、杏子は抗うことが出来なかった。
「…小切手でいいかい?」
「話が早くて助かるよ」
杏子が小切手を用意し、金一千万円、と書いて手渡したのを確認し、久兵衛は続けた。
「美樹さやかの知り合いなら、鹿目まどかのことは知っているね?」
杏子はまどかの優しい目を思い出しながら、「ああ」と言った。
211 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:52:08.56 ID:idX9ZfJ+o
「彼女にウチで働いてもらいたいんだけどね。 美樹さやかの代わりに。 君からそれを頼んでくれるかな?」
杏子は、それだけなら何とかなるだろうと思った。
ほむらは危険だったが、彼女の監視網を掻い潜ってまどかと何とかふたりきりで話し合う事ができれば、
あの優しいまどかなら親友のためにアルバイトくらいはしてくれるだろう。
「あの娘に『ぶっ続け』はさせんなよ」
「それは約束するよ」
212 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:53:05.68 ID:idX9ZfJ+o
「さやかはクビにすんのか?」
「まあね。 彼女は勤めている限り『ぶっ続け』をやりたがるだろうしね。
そうするとまたグリーフシードを飲むことになるだろう?
僕なりの君に対する誠意だよ。
まあさやかが『ぶっ続け』から開放されるのはまどかが入ってからかな…せいぜい急いでくれ。 手遅れにならないようにね」
そう言って、久兵衛は立ち上がった。
「もう要求はねえのか?」
「君とは長い付き合いになりそうだからね。 今回はこれくらいにしておくよ。 解毒剤はまどかと交換だ。
彼女に契約書類を書かせるか、連れ出すことができたら連絡をくれ。」
にやけヅラで、久兵衛は部屋を出た。
杏子は、交渉とも言えない交渉が終わると、すぐに仕事に取り掛かった。
午後からは、見滝原店に赴いて幹部や店長たちと現地で調整をしなければならない。
見滝原店はサークル杏クウカイにとってこの街に進出する橋頭堡だった。
力の入れ様は半端なものではないのだ。
213 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:53:54.88 ID:idX9ZfJ+o
さやかの勤務時間終了間際に久兵衛が来て、マミに話しかけている。
さやかはグリーフシードの影響で聴覚が異常に発達し、その会話が仕事をしながらでも充分に聞こえてきた。
「サークル杏クウカイがこの街に来るのは知っているね。
今まで以上に競争は激しくなるから、まどかが来たら迷わず契約させるんだ。 いいね。」
「サークル杏クウカイが進出してくるって、本当ですか?」
さやかである。彼女は思わず口を挟んでしまったのだ。
「はあ…君はそんな事も知らなかったのか。
『ぶっ続け』をしてくれても、本当にやる気があるのか分かったもんじゃないね」
久兵衛は嫌味のこもった口調で吐き捨てた。
この男は、いつもさやかには厳しい。
さやかの事が嫌いなのだ。
214 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:54:56.25 ID:idX9ZfJ+o
さやかは自分のことを嫌っている男を見て、自分が嫌っている女のことを連想した。
杏子である。
昨日、ほむらに殺されそうになったとき、杏子が助けてくれた。
あの時、ありがとうと言わなかったことをさやかは気に病んでいたのである。
あの女に、借りは作りたくなかった。
「やる気はあります! サークル杏クウカイなんかに負けるもんか!」
そんな思いをぶつけるように、さやかはそう宣言した。
「あっそう」
久兵衛は興味がなさそうにさやかに背を向けた。
それが応えたさやかは、何とかやる気のあるところを見せようと、
サークル杏クウカイ見滝原店の予定地に、帰りに寄って偵察をしようと考えたのである。
程なくして、さやかの勤務終了時間というか、4時間の休憩時間というか、
そんな中途半端な時間が訪れたので、さやかはサークル杏クウカイ見滝原店に向かって走りだした。
215 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:55:37.09 ID:idX9ZfJ+o
サークル杏クウカイ見滝原店では商品の搬入が行われており、幹部社員と思しき背広の群れがそれを視察していた。
さやかがそれを観察していると、大きな黒塗りの車が駐車場に侵入し、その場にいた社員全員が車にお辞儀をするのが見えた。
車の後部座席のドアが開いて、中からサングラスを掛けた女が出てくる。
社員たちは、一斉にその女にお辞儀をしている。
さやかは、清潔感のあるスーツに身を包んだその女に見覚えがあるような気がした。
女がサングラスを外した―
―その女は、杏子だった。
間違いなく、自分がニートと断じて馬鹿にし、見下していた佐倉杏子その人だった。
さやかは、敗北感にどこまでも沈んでいった。
それは、仁美に馬鹿にされた時とは比べものにならない深さの絶望だった。
216 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:56:19.58 ID:idX9ZfJ+o
さやかは周りの人間を観察し、杏子よりも偉い人間がいるはずだ、そう思ってその人を探した。
杏子が誰かに頭を下げる所を見ないと、自分が駄目になるような気がし、さやかは探した。 必死になって、背広の群れを探した。
だけど、その場に杏子より偉い人間を、さやかはどうしても見つけることが出来なかった。
杏子は背広達を引き連れて店舗に入っていき、なにやら指示を出しながら店舗内を一周し、再び駐車場に出てきた。
そこでさやかと眼が合った。
杏子は、決まりが悪そうな顔でさやかを見つめている。
オロオロとさやかを見ている杏子を不審に思ったのか、背広の男の一人が杏子に心配そうに話しかけているのが見えた。
しゃちょう、 どうかされましたか
その口元は、そう言っているようにさやかには見えた。
―社長。
さやかは立ち上がり、その言葉から逃げた。力いっぱい走って逃げた。
涙が溢れて、視界が濁っても走った。
不意に何かに頭を打ちつけて、さやかはその場にひっくり返った。
涙を拭うと、目の前に電柱が立っていた。 さやかは電柱の前にうずくまって、声を上げて泣いた。 子供のように大声を出して、狂ったように泣いた。
217 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:57:34.97 ID:idX9ZfJ+o
「さやか!!」
杏子の声がして、さやかの肩に掌の温もりが触れ、それに抱き起こされた。
「頭を打ったのか? おでこから血が出ているじゃんか!! 手当てしないと!!」
「さわんないでよ!!」
杏子を突き飛ばして、さやかは立ち上がった。
そして涙でぐちゃぐちゃの瞳で、恨みを込めて杏子を睨みつけた。
「あんた、あたしを騙して馬鹿にしてたんでしょ?」
「な、なにいってんだよ、さやか…」
「あんな黒塗りの車に乗れる身分のくせに、あんなたくさんの人からお辞儀される身分のくせに、
あたしが住んでるボロアパートなんかに引っ越してきてさ、
それであんたあたしみたいな貧乏人見て楽しんでたんでしょ? そうなんでしょ?」
218 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/21(木) 19:58:24.66 ID:idX9ZfJ+o
「違うんだ、あたしは…」
「あたし…ほんと馬鹿みたいだったよね。
いい身分の人間をさ、ニートだと思い込んで馬鹿にしてさ…
あんたそう言うの見ておもしろがっていたんでしょ?
フリーターのくせにって、馬鹿にしてたんでしょ?」
「違うんだ! さやか、聞いてくれよ!」
「うるさい!! あんたんとこ…ぶっ潰してやるから!
あたしが死ぬまで働いて、必ずぶっ潰してやるからね!
二度とこの街に進出できないようにしてやるわよ!!」
「さやか!! 聞いてくれ!!」
「気やすくさわんないでよ!!」
「さやかっ!! ひいっ!!」
さやかを引き止めようとした杏子だったが、さやかの渾身の平手打ちに吹っ飛ばされてしまった。
怒りに支配されたさやかは、そのままふらふらと歩き去っていく。
「社長! 大丈夫ですか?」
追ってきた背広に抱き起こされ、杏子はさやかの去っていった方向を呆然と眺めることしか出来なかった。
226 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:34:19.98 ID:5sR2lsr+o
―その日、マミは仕事を休んだ。
マンションを出て、向かう先は産婦人科である。
途中、サークル杏クウカイ見滝原店の前を通る。客の入りはいい。
何でも社長自らがこの街に出てきて、偵察をして立地条件等を考察し、直々に店舗位置を決定したらしい。絶妙な立地である。
ただ、今日は仕事のことは考えたくなかった。
産婦人科に入る。
何度もこの建物の前を通ったが、いざ自分が入るとなると何か違和感を覚える。
玄関に隣接した受付に保険証を提出し、待合室の長椅子に腰掛ける。
空気は冷たい。
227 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:35:24.68 ID:5sR2lsr+o
正面の壁には、「こんにちは赤ちゃん」と書かれた大きな空色の色紙が貼られていて、
そこにはチューリップを型どった色紙が規則正しく並べて貼られている。
そのチューリップの一つ一つには、赤ちゃんの顔写真が貼られていて、
その下には名前と、生年月日、生まれたときの体重が記されている。
「巴さん、巴マミさん」
赤ちゃん達の顔写真を見ているうちに呼び出され、診察室で検査をし、
「4週間ですね。 おめでとうございます」
と、初老の産婦人科医に言われ、マミは自分の未来が輝いているような温かい気持ちになった。
228 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:36:17.30 ID:5sR2lsr+o
帰るとき、再び待合室の赤ちゃんの顔写真をみて、マミはここに自分と久兵衛の子供の写真が並ぶ日が待ち遠しくなった。
お腹の子をかばうように慎重に歩いてアパートに帰ったマミは、
真っ直ぐに両親の映っている写真の前に駆け寄った。
「家族が増えるよ」
やったね、マミちゃん。
写真の中の母が、そう言ってくれたような気がした。
「…もう、何も怖くない」
自分の下腹部。
鼓動のような直接に感じ取れる物は何もなかったが、確かにそこに存在する命に宣言するように、マミは力強くそう呟いた。
229 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:36:53.56 ID:5sR2lsr+o
マミが新しい命を宿したことに歓喜し、マンションで久兵衛が来るのを待っていたとき、さやかは絶望の淵にいた。
恭介が、さやかに何も言わずに家を出たのである。
ぶっ続けの、四時間の中休みで帰ったとき、さやかはアパートの部屋の中に違和感を覚えた。
狭い部屋である。
恭介の持ち物がごっそりとなくなっていたのは、すぐに分かった。
慌てて部屋に入ったさやかの前に、ぽつりと小さな箱だけが置かれており、
そのフタを開けると、さやかが恭介にプレゼントしたクラシックのCDが詰め込まれていた。
恭介には、さやかの与えるすべてが不要なものだったのだと、さやかはその時になって気がついた。
さやかはその前に膝を付き、拳を握りしめてCDに何度も叩きつけ、それらを粉々に割ったあと、搾り出すように泣いた。
泣いている最中、またあのおせっかいの杏子が自分を慰めに来るのではないかと期待してしまい、
さやかはそんな自分を嫌悪した。
230 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:38:34.21 ID:5sR2lsr+o
久兵衛は、部屋に入った瞬間に様子がおかしいことに気がついた。
紅茶の準備がされていなかったのである。
「紅茶の準備をしておくように言ったはずだけどね」
「その前に話があるの」
久兵衛は、マミの毅然とした態度に恐怖を感じた。
最早この女は自分が制御できないところまで増長してしまったのだろうか…
それは久兵衛が最も恐れていた事態だった。
きっと今、この女の体は太陽のように熱いに違いない。
「話って、何かな?」
マミは昨日までのマミではない。
怯えること無く、久兵衛に真っ直ぐな、芯のある視線を向け続けている。
久兵衛はそんなマミから視線をそらしてしまい、自分がこの女に気圧されているのだと知って真っ黒な絶望に思考が暗転しそうになった。
―殴ってやろうか?
とりあえず、この女を今すぐ泣かせないと、自分が保てなくなる―
231 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:39:28.70 ID:5sR2lsr+o
「―子供が、できたの」
久兵衛の思考を遮って、マミの放った言葉。
「なんだ、そんな事か」
「大事なことよ」
「僕も男だからね、責任は取るよ」
久兵衛のその言葉に、マミの顔にすがるような弱さが戻った。
そうだ、この女は弱いんだ。
今は子どもが出来たことで調子づき、虚勢を張っているに過ぎない。
久兵衛の胸の中が、どす黒く渦巻いた。
「十万円位だよね」
―復讐、開始だ。
それを聞いたマミの弱さに、不安が混じった。
いいぞ、その顔だ。
久兵衛はその中に、自分の優位性の輝き出すのを見た。
232 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:40:05.80 ID:5sR2lsr+o
「え…何が?」
驚かせないでほしいな。やっぱり君はいつもの弱っちいマミじゃないか。
変な顔したりしてさ、怖かったよ。怖かったんだよ。
不必要に僕を怖がらせたりして、いけない娘だな、君は。
何がって、決まっているじゃないか―
「中絶費用さ」
マミは、えっ? と言ったきり。動かなくなった。
そのまま眼には涙が溜まっていき、溢れて頬を伝う線になった。
久兵衛が見ると、マミの唇は微かに震えているようだった。
「どうしたんだい?」
「いやよ」
「は?」
「中絶なんて、嫌!」
233 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:41:12.53 ID:5sR2lsr+o
マミはテーブルを叩いて立ち上がった。
震えながら、涙を流して久兵衛を睨みつけている。
この泣き方だ、と、久兵衛は思った。
マミは、泣き方が美しいのだ。
「今、責任をとってくれるって、言ったじゃない!!」
先ほどとは一転して、ヒステリックになっているマミに対し、
久兵衛は落ち着き払って口元に笑みすら浮かべている。
「中絶費用を僕が出してあげるって意味で言ったんだけどな」
希望から絶望への相転移。
久兵衛が最も好むシチュエーションである。
彼は、完全に己の優位性を取り戻してこの時ハイエストテンションになっていた。
「酷いわ!! そんなのって無いでしょ!! ちゃんと責任とってよ!! 嘘つきっ!!」
「君たち女性はこういう状況になると決まって同じ反応をするね。
わけがわからないよ」
躍り上がる優越感に、目を細め、口元を歪めて、久兵衛は冷たくそう言い放った。
234 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:42:40.49 ID:5sR2lsr+o
マミは力なくソファに座り込んで、さめざめと泣いている。
諦念に脱力し、叫ぶこともなく、純粋に泣くという行為だけを行っている。
久兵衛は最高の泣き方だと思った。
マミの泣き方は、誰よりも美しい。
家族が増えるという可能性を葬り去ったそのマミの泣き様に、
久兵衛はなぜ彼女がこんなにも美しく泣くのかという理由を見た気がした。
マミは、家族を失った時から泣き続けていたのだ。
寂しさに、毎日泣いていたのだろう。
家族を失った寂しさによって、マミは泣き方の達人になったのだ。
久兵衛は思った。
この泣き顔を見続けることが出来るなら、何度でもマミを妊娠させて、中絶させてやろう。
そのたびに、マミは最高の泣き顔を見せてくれるだろう。
それが出来るなら、この女と結婚したっていい。 そう思った。
235 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:43:55.06 ID:5sR2lsr+o
さやかは恭介を失った後もぶっ続けをやっていた。
もうきっと体は限界なのだろう。
帰って寝ようとしても、目が冴えて眠れなくなった。
クスリで疲れは感じないが、寝ていないという事実そのものが不安を呼び起こす。
手が震えてきた。
独りきりで部屋にいる。
死んでも誰も気づかないかもしれない。
さやかは、自分の状況のすべてが不安な事項である事に気がついて、叫びだしたい気持ちに襲われた。
しかし、それをしなかった。 したところで、誰が何をしてくれるわけでも無かったからだ。
誰も何もしてくれない。
さやかは、自分が最も恐ろしいと感じているのはそれだという事に気がついた。
さやかは、気がついたら隣の部屋に神経を集中していた。
杏子とは、あれから一度も会っていない。
236 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:45:55.02 ID:5sR2lsr+o
マミは、自分に妊娠を告げた産婦人科で中絶をした。
それ自体はすぐに終わった。入院の必要もなく日帰りだった。
終わった後、腹部には真っ黒な空洞が嵌めこまれたようだった。
―喪失感。
それは久兵衛に初めて犯された時に感じた以上のものだった。
病院は、何一つ変わっていなかった。
診察室の様子も、医者の顔色も、看護婦の様子も、
待合室の長椅子も、正面に貼られた赤ん坊の写真も、玄関に差し込む陽の光も、
それに照らされた受付も、何も変わってはいなかった。
変わったのは、マミ独りだった。
だけどマミには、世の中すべてが自分を裏切ったように感じられた。
237 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:46:46.57 ID:5sR2lsr+o
杏子は意を決してまどかに契約書類を書かせようとしていた。
サークル杏クウカイの代表である自分が、マミリーマートの契約書類を持っていることに、違和感を覚える。
この一週間ほど、ほむらの観察を続けていた。
さやかの話をする振りをして警察署に赴き、彼女のスケジュールを巧みな話術で引き出し、
ほむらがまどかを監視できない時間帯を割り出した。
そして、今がその時だった。
「あ、杏子ちゃん!」
ほむホームのインターホンを押すと、まどかが元気よく出迎えてくれた。
「美樹さやか、クスリでヤバいのは知っているかい?」
杏子が真剣な顔でそう聞くと、まどかは表情を曇らせて頷いた。
「入るよ」
まどかは無言で杏子を招き入れた。
239 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:47:21.94 ID:5sR2lsr+o
「…私、もうさやかちゃんのお店に行ってないの…さやかちゃんどんどん酷くなっちゃうし…もう見てられなくて…」
まどかは涙ぐみながら杏子にそう訴えた。
「あんたがアルバイトの契約をしてくれたら、さやかは助かるんだ」
「…そうなの?」
「あんたにはお客を呼び寄せるオーラみたいなもんがあるからな、多分それが目当てだと思う」
「…よくわかんないや…」
「とにかくあんたが契約してくれればあのクスリの解毒剤を貰えるように久兵衛に約束させた。 やってくれるかい?」
「…うん。 さやかちゃんの為ならいいよ。 私、アルバイト―」
「そこで何をしているのかしら?」
冷たい声に振り返って二人が玄関を見ると、そこには逆光に映し出されたほむらのシルエットが立っていた。
彼女のほうが一枚上手だったのである。
ドアが閉まる。
ほむらは、当然のように拳銃を杏子に向けていた。
240 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:48:06.85 ID:5sR2lsr+o
「ほむらちゃん、駄目!!」
まどかは、杏子をかばうようにほむらの前に立ちはだかった。
「どきなさい、まどか」
「杏子ちゃんは、さやかちゃんを助けるために来てくれたんだよ。
何にも悪いことしてないんだよ。
だから撃たないで! 杏子ちゃんを許してあげて!!」
まどかの剣幕に、ほむらは諦めて銃をおろした。
「…行きなさい」
杏子は、逃げるようにほむホームを出た。
「もう二度と、あなたには協力しないわ」
すれ違いざまにほむらが吐き捨てた言葉が、杏子の脳内に重く響いていた。
241 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:49:03.06 ID:5sR2lsr+o
久兵衛は、男性器を勃起させながらマミのマンションに辿り着いた。
中絶して悲しみにくれているマミを犯す自分を想像すると、堪らなくなった。 まるで童貞の頃に戻ったような気分だった。
急かすようにインターホンを連打したが、返答はない。
拗ねているだけだろう、そう思って久兵衛はマミから貰った合鍵でマンションの自動ドアを開け、ズカズカと上がりこんでいった。
エレベーターの中で、久兵衛は自分の股間に手をやってみた。
熱く、大きく膨らんで、脈打っている。
ズボンの上から少しこすっただけで射精しそうだった。
エレベーターが止まる。
体にだるく重みがかかって、チン、と音がし、久兵衛は股間をいじるのを止めた。
エレベーターの外に出て、久兵衛は紅茶を用意させていないことに気がついた。
今日はまず初めに、それをネタにマミを傷めつけて泣かせよう。
久兵衛はそう思って合鍵で玄関を開け、部屋に入った。
そして、自らの眼を疑った。
242 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:49:51.93 ID:5sR2lsr+o
243 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:50:35.76 ID:5sR2lsr+o
―ポケットの中の携帯電話が着信を知らせて鳴り響いたが、久兵衛にはそれが全く耳に入らなかった。
244 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:51:15.24 ID:5sR2lsr+o
巴マミの自殺で、現場に呼び出されたのは暇でなおかつ近くにいたほむらだった。
通報者が久兵衛だったのを見たほむらは、チャンスだと思った。
事件性がある、とでっち上げ、
この男を追い詰めればグリーフシード事件についても何か進展があるのではないかと期待したのである。
あの事件のおかげで散々な目に会ってきたほむらにとって、これは復讐のようなものだった。
「この後詳しい話を聞くから、署まで同行して頂戴」
久兵衛はほむらに目も合わせず、縮こまって頷いた。
この男は、グリーフシード事件の捜査の時、強気だった。
―僕は知らないね。
―君たちにはこの事件は解決できないよ。
―やあ、暇してるかい?
そんな嫌味のこもった言葉がほむらの脳内に繰り返されているが、それが目の前の小さくなった男の言葉だったとは、
ほむらにはどうやっても結びつかない事実のように感じられた。
245 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:53:14.52 ID:5sR2lsr+o
久兵衛は事情聴取後、一旦放免された。
自分が犯人だと、決め付けられているような事情聴取というよりかは取り調べだった。
外に出ると、次の日の朝になっていた。
会社には行かず、ふらふらと歩いて目についた喫茶店に入った。
そこで紅茶を注文した。
とにかく紅茶が飲みたかったのだ。
そして待っている間に、携帯に杏子から着信が入っていることを知り、気怠いのに耐えて彼女にかけ直した。
「すまねえ、鹿目まどかの件は失敗だった」
久兵衛は始め何の事か分からなかった。
そしてしばらく考えて、それが今の自分にとってどうでもいい事だったと気がついた。
「もういいよ。 もういい」
久兵衛はぼんやりと、窓から差し込む明かりに舞っている埃を見ながらそう答えた。
そして答えた後で、何がよかったんだろうか? と自問し、
その答えが得られなくて思考が輪になって回った。
そしてすぐに自分が何を考えているのか忘れた。
246 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:53:53.28 ID:5sR2lsr+o
「あと一千万払うから、解毒剤を分けてくれ」
久兵衛は電話をしていることすら忘れており、
「おい、聞いてんのか!?」
と、杏子が電話口で怒鳴った声で漸く我に帰った。
「え…なんだっけ?」
「解毒剤をくれ!! いくらでも払うから!!」
「ああ…いいよ…あげるよ」
「幾らだ?」
久兵衛は少し考えてから、もう何も要らない事に気がついた。
「あげるよ。 タダだ。 正午に、喫茶ワルプルギスに来てくれ」
久兵衛は、それだけ言って電話を切った。
247 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:54:33.01 ID:5sR2lsr+o
「ストレートティーになります」
目の前に運ばれてきたのは紛れもなく紅茶だったが、久兵衛は何かが違うと思った。
そしてティーカップを持ち上げてその香りを確かめたとき、その違和感が急速に形を作るのを感じた。
「すみません。 これ、紅茶じゃないと思うんですが」
喫茶店のマスターらしい男が久兵衛のテーブルまで来て、
「ストレートティーでございますが」
そう言って首を傾げたので、久兵衛は自分の意見に自信を無くして紅茶を少しすすってみた。
「やっぱり紅茶じゃないじゃないか」
久兵衛は立ち上がり、千円札を置いてその喫茶店を出た。
248 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:55:41.18 ID:5sR2lsr+o
久兵衛は自宅に戻り、解毒剤の自動注射器を懐に入れてまた外に出た。
変態紳士になる前なら、一本で完全にグリーフシード代謝物質を無効化出来る。
ふらふらと歩きながら、久兵衛は目に付く喫茶店に寄っては紅茶を注文した。
しかしどの喫茶店でも、マミが淹れるような紅茶は出てこなかった。
取り返しの付かないことをしてしまった…
久兵衛は背中に貼りつく恐怖と不安とに震え始めた。
紅茶の味と香りに、マミの温もりが連なって、記憶の底でそれらが瞬いた。
目頭が熱くなる。
本当は、紅茶が飲みたいわけではなかった事に、久兵衛は気がついた。
彼は、マミを愛していた事にこの時初めて気が付いたのだった。
マミを探そう、久兵衛はそう考え、すれ違う人の中にマミを見出そうとした。
何人もの人間とすれ違う。こんなに沢山いるのなら、その中にもう一人くらいマミがいたっておかしくは無いはずだと思った。
しかし、マミの顔を思い出そうとしてまた壁にぶつかった。
泣き顔しか思い出せなかったのである。
久兵衛は頭を抱えてその場にうずくまり、脳裏に浮かぶマミの泣き顔に謝り続けた。
249 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:56:38.52 ID:5sR2lsr+o
バイト先にさやかがいなかった時、杏子は手遅れになってしまったのだと絶望しそうになった。
だが、諦めたくない。
駄目だと分かるまで希望を捨てたくない。
さやかは、あたしの事が完全に嫌いなのだろう。きっともう仲良くなんてなれやしないのだろう。
だけどそうだからって、自分がやろうとした事を、さやかを助けるという行為を、やめていいはずはない。
そう思って杏子は走った。
「さやか!! いるのか、さやか!!」
ノックした。 返事はなかった。
ドアノブをひねってみた。
開いた。
乱暴にブーツを脱ぎ捨て、部屋に上がり込んだところで隅のほうにうずくまっているさやかを見つけた。
250 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:57:15.09 ID:5sR2lsr+o
「さやか!! おい!! 大丈夫か!? あたしがわかるか!?」
さやかは、杏子に眼だけを向け、微かに頷いた。
「…とうとう、バイトさぼっちゃった…」
―大丈夫だ。 杏子はホッと息を付いた。
さやかに近づき、その肩を抱いて優しく語りかける。
「もうバイトなんて行かなくていいって。 苦しいのか?」
「自分が自分じゃなくなってしまう気がする…じっとしてると、まるで働いている時みたいに疲れるの…
動いたほうが楽になるんだろうけど…だけどもう働く意味もないし…どうすればいいかわかんないや…」
「もう大丈夫だ! あたしが治してやるからな!
あのへんなクスリの解毒剤を貰ってきてやるから、ここで待っているんだぞ! 必ず治るから、いいな!」
さやかは、また力なく頷いた。
杏子は素早く立ち上がって、玄関でブーツを履き、飛び出した。
向かう先は、久兵衛との待ち合わせ場所、喫茶ワルプルギスだ。
251 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:58:25.14 ID:5sR2lsr+o
久兵衛は、記憶の中に泣き顔以外のマミを見出すことが出来ず、今度はその声を頼りにマミを探していた。
耳を澄ましながら、歩き出す。
そうすると、車の音や、鳥の声、風の音、人の声、すべての音が混ざり合って邪魔をし、
久兵衛は音を出すそれら全てを破壊したい衝動に襲われた。
しかしそれが出来ないもどかしさに絶望した久兵衛は、唸りながら頭を掻き毟り、次いで身につけているスーツを引き裂こうとした。
そして、内ポケットに入っている固いものに気が付いてそれを取り出してみた。
グリーフシード代謝物質の分解酵素が入った自動注射器―
そこで、久兵衛は自分が外に出ている理由を思い出した。
そして名案がひらめいた。
―杏子にマミを探させよう! あいつは金持ちだから、すぐに見つけてくれるはずだ!
久兵衛は自分が天才になった気がし、狂喜して走りだした。
人ごみをかき分け、全力で走った。
途中、何かにつまずいて転んだ。
後ろを振り返ると、倒れた子供が口の中と鼻から血を出して大きな声で泣いていて、
その隣りにいるババアが、待ちなさい! と叫んで自分を指さしているのが目に入ったが無視して走った。
252 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 20:59:54.85 ID:5sR2lsr+o
走り続けていると、沢山の人が立ち止まって道を堰き止めていた。それをみて、久兵衛はその集団が馬鹿だと思った。
道があるのに、止まっている奴は馬鹿だ。
僕が急いでいるのに、邪魔をする奴はみんな馬鹿だ。
久兵衛はその集団を押しのけて走った。
おい、何だ? とか、危ないぞ! という声が聞こえたが無視した。 それらはマミの声では無かったからだ。
待ち合わせ場所が見えてくる。待ち合わせ場所しか見えていない。
不意に、自分を突き抜けるような音がしたが、久兵衛は気にしなかった。
体の横側に衝撃が走った。頭がクシャッ、という音を立て、久兵衛のすべての感覚が記憶にない状況に投げ込まれた。
アスファルトと空が交互に何度も見え、久兵衛はさっき頭がクシャッと鳴った時の感触を反芻していた。
卵だった。卵を割ったときの感触だった。
久兵衛はマミの作る卵料理がもうすぐ食べられるのだと思った。
ズン、と体の芯に響く音がして、真っ暗になった。
253 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 21:00:40.18 ID:5sR2lsr+o
体の正面に接地感があるのに、体はまだ廻っているような気がする。
大丈夫か? という男の声がした。
久兵衛は、大丈夫だよ、そう言って立ち上がった。
立ち上がったと思ったが、体はまだ廻っている。
ゴツン、と頭にアスファルトの感触が響いて、接地感が背中になった。
明るくなった。眼を開けると視界が真っ赤だった。
久兵衛は、こうなる直前に聞こえたあの自分を突き抜ける音は車のクラクションだったのではないかと思ったが、
そんな事はどうでも良かった。
先ほど大丈夫か? と言った男がなにか言ったようだったが、聞こえなかった。
そんなに遠くで喋って聞こえるわけが無いじゃないか、久兵衛はそう思った。
胸が苦しくなりコホコホ、と、変な咳が出て口の中に血の味が広がった。
真っ赤になった、と久兵衛は思った。
いま、僕の体は真っ赤になったのだろう。
254 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 21:01:37.96 ID:5sR2lsr+o
体の表面がじわじわと温まってくる。
真っ赤な視界の中、ひと際明るい太陽に向けて、久兵衛は手を伸ばした。
感覚は無かったが、赤一色の中でぼやけた手の形の影が揺らめいていたのでそれが動いているのだとわかった。
そしてその影が太陽と重なったとき、久兵衛はマミの笑顔を思い出すことが出来た。
きつく抱き寄せたとき、愛してると自分に言ったマミの顔。
体が温まってくる。 久兵衛にはそれがマミの体温によるものに思えた。
自分と同じ温度だけれども、なぜか暖かく感じる、マミの体温。
生きていることの証。
それは久兵衛にとって、最早不快なものではなかった。
「ようやく会えたね、マミ」
久兵衛は安心して、太陽をつかんだ手の力を抜いた。
255 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 21:02:36.11 ID:5sR2lsr+o
「…嘘だろ…オイ…」
スクランブル交差点だった。
杏子が信号待ちをしていたとき、対角の位置にある人ごみの中から久兵衛が走りだすのが見えた。
あっ、と思ったら走ってきたトラックにはねられ、くるくる回りながら5メートルほど吹っ飛んで道路に叩きつけられた。
トラックから運転手が降りてきて、「大丈夫ですか?」と叫んだ。
それに反応したのか、起き上がろうとしたようだったが、立ち上がろうとしてその勢いで仰向けにひっくり返った。
その顔は血で真っ赤だった。
そこまで見て、杏子は久兵衛に駆け寄った。 交通は止まっていた。
256 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/22(金) 21:03:17.37 ID:5sR2lsr+o
「オイ、久兵衛! しっかりしろ!!」
久兵衛の体はビクビクと痙攣していて、アスファルトの血溜まりがみるみる広がっていくのが見える。
杏子は久兵衛の左手に握り締められた自動注射器を見たが、
それはビニール包装の中でめちゃくちゃに壊れていて、とても使えそうになかった。
杏子は祈るようにそれを見つめていた。
見つめていると、それが直るような気がした。
直ってくれないと、困る。そう思ってそれを見続けているうちに救急車が来て、久兵衛は運ばれて行った。
杏子はその時初めて、自分が解毒剤を入手しそこねたのだと気がついた。
266 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:09:57.40 ID:rwDqWCbpo
杏子は目撃者の一人として、見滝原警察署で事情聴取をされていた。
なにか聞かれ、それに答えてはいるが心は別にあった。
―さやか。 大丈夫だろうか?
解毒剤を入手しそこねた、どうすればいい?
きっとマミリーマート本社と交渉してもグリーフシードについては知らぬ存ぜぬの一点張りだろう。
久兵衛も、だから個人的に交渉に応じたのだ。
…まさかこんな事になるなんて…
「久兵衛が死んだって、本当?」
杏子に事情聴取をしている警官に、聞き覚えのある声がそう質問した。
警官は、そうだ、と答えた。
杏子は、ハッとなってその顔を見上げた。
「容疑者、死亡ね。 彼が亡くなった時の状況は?」
そこに居たのはほむらだった。
「どうも錯乱状態で信号無視して横断歩道を渡ろうとし、トラックにはねられたみたいだな」
杏子に相対している警官がそう言うと、ほむらはそう、と言って部屋を出た。
杏子は、ほむらに完全に無視されていた。
267 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:10:50.37 ID:rwDqWCbpo
「君も、もういいよ。 ご苦労様」
警官が杏子にそう言ったのを聞いて、杏子は事情聴取が終わっていた事に気がついた。
杏子はすぐに走りだした。ほむらの後ろ姿を捉える。
「おい! あんた!! 待ってくれ!!」
ほむらは一瞬、杏子を視界の端に捉えたが、すぐに向き直って歩き出した。
杏子は構わず駆け寄って、助けを求めるように言った。
「久兵衛が死んじまって、解毒剤が手に入らねえ!!」
ほむらは逃げるように早足になり、警察署の入り口を出た。
杏子のことは相変わらず無視している。
「頼むよ!! あんただけが頼りだ!! 助けてくれよ!!」
杏子の眼からは涙のすじが頬を撫で始めていたが、ほむらは無視して駐車場に向かい、
停めてあるボロ臭い覆面パトカーのドアを開けてから漸く口を開いた。
「もうあなたには協力しないと言ったハズよ。 まどかにさえ手出しをしなければ、あなたは解毒剤を入手出来たかもしれないのにね」
268 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:11:48.10 ID:rwDqWCbpo
杏子がほむらの顔を見上げると、その表情には蔑むような笑みが浮かんでいた。
「これから、久兵衛宅を家宅捜索に行くのよ」
「何だと…じゃあ…」
杏子はほむらが閉めようとした車のドアを押さえつけ、縋りつくようにドライバーシートのほむらの前に膝を付いた。
「あるんじゃないのか!? あいつの家には、まだ解毒剤が!!」
ほむらは必死の形相の杏子を見て、無表情に口元だけを歪めて、
「あったとしても、あなたの手には入らないものよ」
そう言って杏子を突き飛ばし、ドアを閉めた。
杏子がドアにへばりつくと、エンジンが掛けられ、ウィンドウが降りてきた。
「発進の邪魔をしないでくれるかしら? 今度こそ公務執行妨害で逮捕になるわよ」
だが、杏子は怯まなかった。
ドアに張り付いたまま車内のほむらに語りかけようとしたとき、
「あなた、留置所の中から美樹さやかを助け出せるの? 本当に彼女を助けたいなら、良く考えて行動することね」
と、冷たくほむらが放った言葉に、杏子は感電したように車から離れた。
「せいぜいそうやってもがいていることね。 私のまどかを労働というゴミ溜めに放り出そうとした罰だわ」
そう言い残して、ほむらの車は発進した。
あとには排気ガスの匂いにまとわりつかれ、絶望に放心した杏子が取り残されていた。
269 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:13:20.17 ID:rwDqWCbpo
さやかは、徐々に暗くなっていく部屋に独り、震えていた。
電気を付けなければ、暗闇に自分が飲まれてしまう―
それは恐怖を伴ったが、さやかは体を動かす事ができないでいた。
先程から自分が自分でないものに取って変わられるような感覚と戦っている。
自分が少しでも動いたら、そのはずみで自分を乗っ取ろうとしている得体のしれない何かに負けてしまいそうな気がし、
さやかはその場に固くうずくまって震えている事しか出来なかったのである。
だけど、とさやかは考えた。
だけど、闇に包まれてしまえば、同じことが起こるのではないか―?
自分の体の中の真っ黒な奴が、体の中から手を伸ばし、この迫り来る暗闇と手を繋いだ時、
奴らに包まれているあたしは、きっとあたしでなくなるのではないか―?
だがさやかは動くことが出来ない。
闇は、刻一刻と近づいてくる。
さやかは、動くことが出来ない。
270 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:14:04.87 ID:rwDqWCbpo
まどかは、手塩にかけて作り上げた食卓を目の前に、独り寂しく俯いていた。
いつもならほむらが帰ってくる時間をとっくに過ぎている。
食卓の中央に盛りつけられたサラダが放つ光沢をじっと見ながら、まどかは暗い想像に負けそうになっている自分を叱咤し続けていた。
そんな重い空気を引き裂くように、目の前に置いてあった携帯電話が光を放ち、
振動でテーブルクロスの上を少し、また少しと這いずった。
「もしもし? ほむらちゃん?」
電話に出た瞬間、まどかは自分の眼に涙が溜まってくるのを感じた。
「今日は仕事で遅くなるから、夕食は一人で先に摂っておいてくれるかしら?」
まどかは寂しさを電話口にぶちまけたい思いにかられていたが、そのほむらの言語に、唾を飲み込んでそれを堪えた。
「そっか…お仕事なら仕方ないね…ほむらちゃん…何時に戻るの…? 私、待ってるから…」
「私の分は寄せておいてくれればいいわ! あなたは先に食べていなさい!」
ほむらはそれだけ言って電話を切った。
まどかは震えながら箸を掴んだが、それは何も捉えられずにテーブルクロスの上に戻され、
次の瞬間、まどかの涙の粒がその上に落ちてポツン、とはじけた。
271 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:15:06.58 ID:rwDqWCbpo
久兵衛宅はほむらにとって宝の山だった。
彼女は、巴マミの死体があまり時間の経っていないものだったのをいい事に、死んだ久兵衛を犯人にでっちあげ、彼の家を捜索していた。
狙いはここでは余罪扱いになるグリーフシード事件の証拠である。
それらがあまりに豊富だったので、ほむらは言いようのない高揚感で我を失っていた。
組織の都合に抑圧されていた、自分の能力―
窓際族として過ごしていた時間―
そして自分のプライド―
それらを取り戻さんとするように、ほむらは証拠となる資料をかき集め続けた。
先ほど、まどかに電話をし、先に夕食をとっているように指示をしたが、
その際、まどかの声が悲しみを含んで重くなっていることなど、その時のほむらには感じ取れるはずもなかった。
ほむらはようやっと取り戻したのだ。
有能な、警察官としての自分を。
272 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:16:09.16 ID:rwDqWCbpo
暗闇がぎりぎりと体を締め付け、心をすり減らす。
さやかがその感触に負けそうだと観念したとき、部屋に明かりが点って、彼女は助かった、そう思った。
「大丈夫か!? 真っ暗だったから心配しちゃったじゃんか!!」
杏子だった。
彼女に抱きしめられてその温もりに触れたとき、さやかはまた助かった、と思った。
「…ゴメン。 解毒剤だけど…今日は手違いで手に入らなかった」
さやかは、そんな事はどうでもいいと思った。
「…でも必ず、手に入れてみせるからな!」
もういい、もういいったら…
そんな事より…
「あんたさ、どうしてあたしのためにここまでしてくれるわけ?」
273 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:16:56.71 ID:rwDqWCbpo
杏子は一瞬、言葉に詰まったあと、文章を音読するように、
「さやかはすごく頑張るじゃん…だから、ほっとけないのさ…」
と、そこまで言って視界を泳がせ、
「…あたしってさ…こんな仕事だから…色々な人を見てきてるんだけどさ…あんたみたいな、頑張る人には…弱いって言うか…」
そうやって、薄く伸ばすような言葉を吐き続け、杏子は胸が鋭く痛み出すのを感じていた。
嘘とは行かないまでも、自分の本音を避けて通らなければならない建前の苦痛…
本心というレールを、脱線する他なくて身動きがとれない自分への憎しみ…
「だからさ…ううん…まあ、いいや!」
痛くて、痛くて、涙が出そうで…そんな自分を振り切るように、杏子は声を張り上げた。
「そうだ、さやか晩ご飯まだだろ?」
杏子は持ってきた紙袋に手を入れ、
「こんなモンしか無いけど、食うかい?」
そう言って、さやかにハンバーガーを差し出した。
274 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:17:28.65 ID:rwDqWCbpo
さやかは差し出されたハンバーガーを断ることが出来なかった。
断るだけの気力が無かったのだが、空腹だったことも確かだった。
さやかがハンバーガーをかじると、杏子の顔は陽の光が差し込んだように明るくなった。
自分の行動に一々大袈裟な反応を示す杏子が見ていられなくなり、さやかは彼女からその顔を背けた。
顔を背けても、杏子の視線が自分に絡みついているのがわかる。
たださやかにとってそれは、最早鬱陶しいという感覚を伴うものでは無かった。
「うっ…!」
二口目のハンバーガーを飲み下したとき、さやかの中に巣食う何かが、それを拒絶した。
激しい吐き気がこみ上げてきて、さやかの胃袋はそれに答えるように痙攣し始めた。
さやかは口を押さえ、必死にそれに抗った。
激しく蠢く胃袋は、体の内側からさやかを前後に揺すっている。
275 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:18:10.43 ID:rwDqWCbpo
「大丈夫か!? さやか!!」
杏子が背中をさすっている。
食べ物を粗末にしない、食べ物を粗末にしない、食べ物を粗末にしない…
さやかは胸の内にそう唱え続け、自分の意志とは関係なく動く胃袋と戦い続けていた。
「気持ち悪いのか!? 吐いてもいいんだぞ!」
そう言いながら背中をさすり続ける杏子に自分のそんな姿を見せたくなくて、さやかは尚も吐き気をこらえ続けていた。
吐瀉物が出ない代わりに、眼球全体が熱くなって大粒の涙がこぼれ始めている。
そうしているうちに、吐き気は徐々に治まってきた。
さやかは大きく深呼吸をし、杏子に振り返ったその表情は悔しさで飽和しているようだった。
「本当にゴメン…もう食べられないや…」
さやかはすすり泣きながら、食べかけのハンバーガーを杏子に返した。
276 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:18:45.88 ID:rwDqWCbpo
「仕方ないさ…さやかは病気なんだ…こんなモン食わせようとしたあたしがバカだったんだ」
杏子はさやかを抱き起こし、ベッドまで連れて行って彼女を寝かしつけた。
「疲れているみたいだから、今日はもう寝ような」
部屋の中は極端に物が少なくなっていて、杏子は恭介がもうここには帰って来ないことを知っていたが、
その事実をさやかの前でどう扱っていいのか分からなかった。
ただ一つ、分かるのは、ここにさやかを独りで置いてはおけないということだけだった。
「ごめんね…ごめんね…」
さやかはハンバーガーを食べられなかった事を気に病んでいるのか、
ベッドの上で杏子に背を向けたまま、泣きながらそう繰り返していた。
277 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:19:26.07 ID:rwDqWCbpo
「気にすんなって…あたしが全部食べるからさあ…」
そう言ってさやかから渡されたハンバーガーを見、杏子は自分が喋った言葉の意味を再考した。
そして胸の鼓動が急速に力強く、激しくなるのを感じた。
「食べて、いいんだよな…?」
そう言ってさやかに視線を預ける。
さやかは杏子に背を向けた姿勢でベッドに横になったまま、微かに「ん…」と返事をしたようだった。
杏子はもう一度ハンバーガーに視線を移した。
さやかの唇が触れ、その歯にちぎり取られた食み痕…
胸の鼓動が更に加速し、それに連動するようにこめかみがしんしんと頭に何かを送るたび、思考が真っ白に霞んでいく。
杏子はもう一度、さやかを視界の正面に捉え直した。
背中を向いている。
278 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:20:07.07 ID:rwDqWCbpo
杏子はさやかを見張りながらハンバーガーを素早く口元に運んで、その食み痕に唇を押し付け、ちゅっ、とかすかな音を立てた。
さやかは向こうを向いたままだ。
それから舌を出してなぞるように彼女の口の跡を舐め回す。
さやかが今、こっちを振り返ったらと思うと、腹の底がヒリヒリと焦りだした。
そして、さやかを挑発するようにちゅっ、ちゅっと音を立てて食み痕にキスをして、
彼女が振り返らなかった事を確認し、少し躊躇してから漸くハンバーガーをかじった。
そしてその時、杏子はさやかが振り返らなかったことを残念に思った。
咀嚼すると、口中に広がったのは罪の味だった。
鼓動が胸に響くたびに、その内側に黒く冷たい後ろめたさが溜まっていき、それは心音の度にその濃度を濃くしながら杏子を責め続けた。
さやかは、そんな杏子に尚も背を向けたままだった。
279 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:21:29.82 ID:rwDqWCbpo
「ほむらちゃん。 おかえりなさい」
「ただいま」
短くそう言ったほむらの姿を見て、まどかは彼女が別人なのではないかと錯覚した。
いつもなら自分に正面を向いて、笑顔と共にそう言ってくれるはずが、
今日は忙しく靴を脱ぎながら、目も合わせずにそう言ったのだ。
怖くなった。
その恐怖を振り払うように、まどかは靴を脱いで上がりこんだほむらの行く手を塞ぐように立ち、眼を閉じた。
ただいまのキスである。
しかしまどかの心を満たすはずのその儀式も、彼女の不安を煽り立てただけだった。
いつもなら彼女を抱きしめ、深く、長くされるはずのそれだったが、今日に限っては両肩に手をおいた形で、軽く唇が触れ合っただけだった。
まどかの胸に、冷たく黒いものが生じて、それが背筋をなぞるように冷やした。
280 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:22:17.80 ID:rwDqWCbpo
ほむらは早足で食卓に向かう。
まどかはそれを必死に追いかけた。
「今日はビーフシチューとサラダを作ったんだよ」
まどかは、胸に生じた不安を払拭するため、空元気を振り絞って笑顔を作り、そう言ったが、それに対するほむらの返事は、
「そう」
と、素っ気なかった。
ほむらは食卓に着くとすぐに、
「まどか、あなた食べていないの?」
と、怒ったような口調でそう言ったので、まどかはしどろもどろになりながら、
「ほむらちゃんと一緒に食べたくて、待っていたの」
と、言い訳し、ほむらの機嫌をうかがった。
「まだ仕事が残っているから、私急ぐわよ」
ほむらはまどかに目もくれずにそう言って、もの凄いスピードで食事を取り出した。
まどかは唖然としてそれを見ている。
281 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:22:54.59 ID:rwDqWCbpo
282 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:23:29.51 ID:rwDqWCbpo
「ご馳走様」
結局、一言も会話を交わさずにほむらは食事を終えた。
休みなく口に物を運ぶほむらの様子は、完全にまどかを拒んでいるようで、話しかける機会は完全に絶たれていた。
あとには、半分ほどしか食事を終えていないまどかが独り、残されている。
「お仕事なら…仕方ないよね…」
まどかは、誰にともなくぽつりとそう言った。
目の前にあるサラダの光沢は、少し鈍くなっていた。
283 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:24:27.17 ID:rwDqWCbpo
ほむらは資料を自室のパソコンに整理していた。
警察署の官品パソコンにもデータは入っているが、上にとっては進めたくない捜査のデータである。
握りつぶされる可能性があったので、こうして違法ではあるが捜査資料を保険として自宅に持ち帰るのがほむらのやり方だった。
携帯電話がバイブと光で着信を教える。
杏子からの着信だった。
ほむらは携帯を開いて、しばらく着信画面を眺め、
それから物的証拠が入ったバッグの中からビニール包装に包まれた自動注射器を取り出し、それでボタンを小突いて着信保留にした。
「あなたには協力しないって、言ったはずよ」
注射器を仕舞って、パソコンに向き直る。
今日手に入れたデータはかなりの量だ。
これをもとに捜査のための様々な書類を作成し、文句が付けられない状態でそれらを上に叩きつければ、
彼らも捜査を進めざるを得なくなるだろう。
心の中に、火が灯った。
絶対に揺らめくものか。 ご都合主義で消させはしない。
ほむらはそう思った。
284 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:25:20.98 ID:rwDqWCbpo
「畜生! 無視しやがって!!」
杏子は、繋がらない電話の向こうに居るはずのほむらに悪態をついて携帯を投げ出した。
訴えるようにさやかに目をやると、彼女は目を見開いたまま、じっと天井を見つめていた。
「…帰らないの?」
ぽつりと浮かび上がったのは、さやかの弱り切った声だった。
「…居ちゃだめかい?」
さやかは寝返りを打ってまた杏子に背を向け、聞き取れるか取れないか位のか細い声で、
「別に、どうでもいいんだけどさ」
と言った。
「じゃあ、いてもいいだろ? 一緒にいるよ―」
さやかは、背中でそれを聞いている。 表情は見えない。
「―独りぼっちは、寂しいもんな」
285 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:26:12.99 ID:rwDqWCbpo
その言葉に一瞬、さやかの体が震えて、それからゆっくりと杏子に向き直った。
その眼は表情こそ纏ってはいないが、確実に冷たい何かで杏子を貫いていた。
「あ…ご…ゴメン…そんなつもりじゃ…」
杏子は軽薄に「独りぼっち」と言ったことを激しく後悔した。
それはさやかの心の支えであった恭介が消えたという事実を、彼女の心に深くえぐり込む結果になったことだろう。
「そうだね、あたしは独りぼっちだよね」
杏子は、あたしが居るよ、というセリフを胸中に用意したが、
その言葉がさやかにとって何の意味も持たないであろう事を恐れて、口には出せなかった。
「気にしなくていいんだよ、それが事実だし」
無表情のさやかの瞳は、諦めの色を帯びて瞬いた。
「あんただって、あたしに深く関わりたくないんでしょ?」
それを聞いた杏子は、あたしが居るよ、それを言わなかったことを後悔した。
だが放たれるべき最適の機会を失したその言葉を再び口にすることは、杏子には出来なかった。
「そんな事ないって…」
杏子は震える唇を動かして何とかそう言ったが、その言葉は放った本人にも、言い訳にしか聞こえないものだった。
286 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:26:48.36 ID:rwDqWCbpo
ほむらの部屋のドアをノックするが、返事はない。
「ほむらちゃん、入るよ」
ドアを開けると、ほむらは背中を向けたまま、「何?」と言った。
「あのね、ほむらちゃんお仕事頑張っているから、お茶淹れたの。 少し休んだほうがいいんじゃない?」
「そこに置いておいて」
ほむらは尚もパソコンを操作しながら、まどかに背を向けたままだ。
まどかの眼に見る間に涙が溜まっていくが、それをほむらに見られたくない彼女は、黙って紅茶をその場に置いた。
「遅いから、先に寝ていなさい」
ほむらの後ろ姿にそう言われ、まどかは嗚咽を押し殺しながら扉を閉めた。
287 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:27:39.35 ID:rwDqWCbpo
電気をつけたまま、次の日の朝を迎えた。
部屋が暗くなるのを、さやかが極端に恐れたからだった。
変態紳士化までもう時間がない、杏子は焦りを感じていた。
「おかゆができたぞ」
杏子は元気を振り絞ってそう言い、さやかのベッドに湯気の溢れる小さな土鍋を持っていった。
「フーフーしてやろうか?」
「…いい。 一人で食べられるし」
さやかはかすれた声でそう言い、ベッドの脇に置かれた土鍋から茶碗におかゆをよそって、小さくありがとう、と言った。
それを聞いただけで、杏子は幸福が胸中に飽和したように感じた。
さやかは無表情のまま、おかゆをれんげで掬い、口に運んだ。
「ゆっくりだぞ。 ゆっくりでいいからな」
杏子は体中に力を入れて、さやかの摂食を応援していた。
288 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:28:29.45 ID:rwDqWCbpo
「ぷっ!」
さやかが力なく、笑った。
杏子は何がおかしいのか分からないが、さやかが笑ったというその事実だけが嬉しかった。
「あんたも食べたら? ああ、あんたは元気だからおかゆじゃ物足りないのか…」
杏子は茶碗におかゆをよそい、
「いや、あたしもさやかと同じのを食う!」
そう言って満面の笑みをさやかに投げかけた。
「そう」
さやかは短く相槌を打ち、またおかゆを口に運んだ。
「おいしい」
「あたしが作ったんだから、当たり前だろ!」
愛情込めて、作ったんだからな、声に出せなかったその言葉を視線に乗せて、杏子はさやかを見つめた。
さやかが、また一口、おかゆを口にいれた。
杏子は、もしかしたら助かるかもしれない。 さやかは大丈夫かもしれない。
そう思った。
289 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:29:38.01 ID:rwDqWCbpo
飛び起きたまどかがダイニングルームに駆け込んだ時、ほむらは一人で焼いたトーストを齧っていた。
「ごめんなさい…寝坊しちゃって…」
「別にいいわ」
ほむらは無表情のままそう答えた。
昨日と同じ顔だ。
まどかはほむらの体が、他の誰かに乗っ取られたのではないかという不安に駆られた。
「ベーコンエッグつくるね」
「いいわ」
冷たい言葉。
まどかは耳を疑って「え?」と聞き返した。
「もう仕事に行くから」
ほむらは立ち上がりながらそう言った。
既にトーストを食べ終え、手と口をナプキンで拭っている。
「…あのね、ほむらちゃん」
「何?」
ほむらを呼び止めたまどかだったが、それに反応したほむらの言葉が怒気を含んでいることに戸惑い、彼女はそのまま言葉を失った。
290 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:30:16.44 ID:rwDqWCbpo
「何よ、まどか! 言いたいことがあるなら言ってみなさい!」
強くなるほむらの声に追い詰められたまどかは、彼女に何か言いたいことがあるわけではなかった事に気がついた。
ただ、何かに急き立てられるようなほむらの様子が不安で、少しだけ自分のほうを見つめて欲しかっただけなのだった。
「…ごめんなさい…」
まどかは押しつぶされそうな胸を何とか働かせ、そうつぶやいて俯いた。
「…いい、まどか。 私は忙しいの。 お仕事なのよ。 つまらないことで時間をとらせないで頂戴」
まどかは苦しい胸を押さえてなにか言おうとしたが、
「今日も遅くなるから、夕飯は先にとっていなさい」
というほむらの言葉がそれに覆いかぶさった。
「…ごめんなさい…」
涙を含んだ謝罪に答えたのは、ダイニングルームの扉が閉まる荒い音だった。
291 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:31:14.47 ID:rwDqWCbpo
「ちょっと電話をしてくるな」
食器を洗ってくれた後、杏子がそう言って部屋の外に出た。
扉の開閉に乗って流れた空気がさやかの顔をなで、前髪を少し跳ね上げたとき、
その余韻に寂しさが混じって、さやかはそんな自分に戸惑った。
目を閉じると、クスリのせいか体全体が耳になったように、微かな物音も皮膚で聞こえるようになる。
台所の、食器棚の後ろをゴキブリが張っているのも分かるくらいだ。
杏子の話し声が聞こえてくる。
―ああ、本当に済まない。
―一週間くらいだと思う。 うん、よろしく。
―もし一週間たっても私が出社しなかったら―
―あんたに会社をやるよ。 うん。 それじゃ。
292 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:31:50.78 ID:rwDqWCbpo
ドアが開いて、杏子が何事も無かったかのように入ってきた。
「あたし、あんたの看病することにしたから。 しばらくここにいるからな」
「…会社に行かなくていいの?」
一瞬、杏子の顔が強張ったのを、さやかは見逃さなかった。
「おう、休暇貰った」
杏子は笑顔を取り戻してそう言った。
「…休みたい時に休める…いい身分だね」
さやかはそう吐き捨てて、杏子に背を向けた。
そしてその背中に、じわりと後悔が広がっていくのを感じた。
だがその一方で、心無い言葉で杏子を試そうとしている自分が居ることにも気がついた。
293 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:32:38.58 ID:rwDqWCbpo
「…もういいからさ、会社に行きなよ」
―まだ居る。 出て行かない。
「忙しいんでしょ、行きなって」
―行かないで。
「あたしなんかに、構っている暇無いでしょ?」
無言の杏子に、そうやって冷たい言葉を浴びせかけるたびに、それが深い後悔となってさやかにも降りかかってくる。
そしてその冷たさを感じた後、まだそこに居続ける杏子の気配を背中で必死に探り、それを確認して安堵する。
緊張と弛緩を繰り返す度にひび割れそうになる心で、さやかは自分をすり減らし続けた。
しかしそれをいくら繰り返しても、恭介に裏切られ、仁美に馬鹿にされ、傷つき続けた彼女の心は、
杏子という新たに接近した他者を、受け入れることが、信じることができないでいた。
294 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:33:15.24 ID:rwDqWCbpo
さやかの、杏子に対する罵倒は、次第に涙と嗚咽が混じって聞き取れなくなっていった。
杏子は、こんな光景を何度となく見たことがあった。
知人や親戚に連れられて父の教会を訪れる、悩みを抱えた人々―
最初は、みんな否定的だったのが、父がずっと話しを聞いていると、
そして時々、ごく当たり前の返答を返していると、次第にこうして悩みや悲しみを吐き出して、心を開いてくれるのだ。
杏子はそれを見ながら、いつも魔法みたいだと思っていた。
―自分は今、漸くその魔法を使えるようになったのだ、杏子はさやかの様子を見ながら、そう思っていた。
295 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:33:47.60 ID:rwDqWCbpo
「心配しなくてもさ、あたしはさやかが治るまで、どこにも行かないよ」
そう言った後で、杏子は自分がここに身動きがとれない状態になってしまったことに気がついた。
解毒剤が手に入らなければ、さやかはそのうち変態紳士になってしまうのだ。 そしてほむらに殺されるのだろう。
それを手に入れるために、主動的に自分が動きまわる事が出来なくなった―
だが、杏子は思った。
だが、今さやかはあたしを必要としてくれている。
そんな時に、彼女を置いて解毒剤を探しに行くなんて、出来ないはずだ。
杏子は自分の体が一つしかないことを、この時猛烈に不便に思った。
296 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:34:36.43 ID:rwDqWCbpo
一つしか無い体の中で、二つの気持ちがせめぎ合う―
このままさやかの側に居続けたい。
でもそうすれば、さやかは確実に変態紳士になって暴れだし、ほむらに殺されてしまう。
行かなければならない。
解毒剤を求めて、ほむらのところか、それが駄目ならマミリーマート本社か、とりあえずどこか可能性のあるところへ。
だけど、どこに行っても可能性は無いのではないか。
ほむらはまどかを取引に使い、アルバイトをさせようとしたことで怒り、絶対協力しないといった。
マミリーマート本社は、あのクスリの存在そのものを認めないはずだ。
だからもう、さやかの側にいることしか自分には出来ないし、自分もそれを求めているはずじゃないのか?
二つの気持ちは八の字を描き、回り続けた。
杏子は引きあう二つの気持ちの間で身動きが取れず、沈黙を続けていた。
297 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:35:11.11 ID:rwDqWCbpo
杏子の悩みは、玄関の扉を叩く小さな音に乱れ、壊れて掻き消えた。
「あたしが出るよ」
ベッドのさやかにそう言って、杏子は立ち上がった。
玄関に向けて歩き出す。
悩みが吹っ飛んだのは有り難いが、もし玄関に立っているのが恭介だったらぶん殴ってやろう、杏子はそう考えながら扉を開けた。
「あっ 杏子ちゃん」
そこには、元気がなさそうに俯いたまどかが立っていた。
「さやかちゃんの様子を見に来たの。 お店で聞いたら辞めたって言うし…」
杏子は、まどかを招き入れるのを一瞬躊躇した。
しかし一瞬であった。
「入んなよ。 さやかも喜ぶぜ」
まどかが部屋に入ったとき、杏子は微かな後悔を覚えた。
298 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:35:47.48 ID:rwDqWCbpo
「まどか、来てくれたんだ!」
今まで杏子を前に、殆ど変化を見せなかったさやかの表情が弾けるように明るくなった。
杏子はそれを、自分が見たかったはずのさやかの笑顔を見て、
まどかを招き入れたとき感じた後悔が大きく膨らんだ、暗く冷たい気持ちに襲われるのを感じていた。
「まどか…この間はさ…酷い事言ってごめんね」
「ううん…気にしてないよ。 さやかちゃんこそ、体は大丈夫なの?」
二人の笑顔を見、弾むような会話を聞いているうちに、その暗い気持ちが腹の中で結晶化し、大きく、重くなっていく。
「まどかの姿を見たら、具合がわるいのも吹っ飛んじゃったよ!」
杏子は、自分が完全に蚊帳の外に居る事を、痛む心で感じ取った。
299 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:36:13.77 ID:rwDqWCbpo
「杏子ちゃん、どこいくの?」
まどかにそう言われて初めて、自分が玄関の扉に手をかけようとしていたことに、杏子は気が付いた。
「か、買い物だよ。 何かほしい物とか、あるかい?」
さやかが、「別に無いかな…」と言ったのを確認し、杏子は逃げるようにアパートの部屋を出た。
扉越しに聞こえてくる二人の楽しそうな会話…
それを振り切るように、杏子は当てもなく歩き出した。
300 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:36:44.76 ID:rwDqWCbpo
ほむらは焦っていた。
昨夜、整理した資料を精査してみれば見るほど、捜査の進展は絶望的であることが分かってきた。
事件の核心に久兵衛がいた事は確かだったが、そこから上には、
意図的に捜査の手が及ばないように組織が組み立てられているようだった。
「駄目だった。 製薬工場も稼動してない。 ただの空き工場になっていたぞ」
「流通に関わっていたチンピラを数名逮捕したが、こいつらも何も知ってそうにないな…」
「久兵衛が生きていたら、少しは望みがあったんだがな…」
家宅捜索後、興奮に沸き立っていた捜査チームだったが、もう既に昨日の今日であきらめムードが広がり始めている。
「もう一度、基本から捜査しなおしてみましょう。 どこかに手掛かりがあるはずよ」
そんな彼女に、捜査チームのメンバーたちはため息混じりの視線を投げかけてから、のろのろと動き出した。
チームは、やる気のない平常運転に戻りつつあった。
ほむらは、焦っていた。
301 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:37:45.19 ID:rwDqWCbpo
マミリーマート本社を訪れた杏子は、運良く昼休みに社長と会談を設けることに成功したが、
グリーフシードについて尋ねるとやはり久兵衛という社員が会社の組織網を使って勝手に流通させていたもので、
会社はそんなモノの存在は知らないし、一切関与していないということだった。
予想通りの反応である。
昨日の夜からさやかの面倒を見、ろくに寝ていない杏子は疲れきっていた。
マミリーマート本社を出るとすぐ、タクシーを止め、乗り込んだ。
「どちらまで?」
見滝原のアパートへ向かうように指示しようとしたが、
さやかとまどかの笑顔と楽しそうな会話がフラッシュバックし、
それに背を向けるように杏子は別の地名を口走っていた。
流れる景色はビルの谷間を抜け、大きな道路を滑り、橋を渡って河を超えた。
視界を横切る色の中に、緑の比率が一気に増え、次第に道も狭くなって、舗装もなくなった。
そのあたりに差し掛かると、運転手もお手上げで、杏子が道を指示するようになっていた。
302 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:38:32.81 ID:rwDqWCbpo
「ここでいい」
タクシーを止め、料金を支払った。
料金は一万円をゆうに超えていた。
狭い未舗装路で、タクシーがえっちらおっちらとUターンし、
戻って行くのを見送ってから、杏子は車が通れないあぜ道を登っていった。
5分ほど登っただろうか、視界が急に開けた。
ヒトの背丈を少し越すくらいの低木が規則正しく植えられ、その上に広がる空の青が眩しいくらいだった。
低木には薄い桃色の、桜を大きくしたような花が散りばめられており、
そこに蜜蜂よりも一回り小さな蜂がせっせと群がっている。
先程から聞こえ続けているのは、草刈機の2ストロークエンジンが出す直線的な金属音だけだ。
ここは、杏子のリンゴ農園だった。
303 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:39:32.25 ID:rwDqWCbpo
「お姉ちゃん!」
草刈機のエンジン音がストールし、代わりに良く通る声が杏子の耳に届いた。
駆け寄ってきたのは、杏子の妹だった。
彼女は去年まで杏子の秘書を務めていたが、激務で体調を崩してからはこの農園の管理をやっていた。
「お前一人か?」
「ううん、今日はお父さんも来ているけど、お父さん草刈機使うの下手くそだから取り上げちゃったの。
土を切って、すぐ刃を駄目にしちゃうんだから…
摘果の時期になったらアルバイトを雇うつもりだけど、今は―」
そう言って、妹はりんごの花に群がる蜂に手を差し延べ、
「この蜂さん達が、一番働いてくれているよ」
そう言って、笑った。 杏子の秘書を務めていた時には、見せなかった表情だ。
彼女には、秘書なんかよりもこういう仕事の方が向いていたんだと、今になって杏子は思う。
304 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:39:58.18 ID:rwDqWCbpo
「そっか、親父が来ているのか…そりゃ好都合だな」
「お父さんに用事があるの?」
「ちょっと、話が、な…」
そう言って、曇った杏子の表情を心配そうに見やった妹が、
「お父さんなら、小屋でリンゴを食べてるよ」
と、教えてくれた。
「そうか…」
と、杏子が休憩小屋に向けて歩き出そうとしたその背中に、
「お姉ちゃんもリンゴ、食べるよね。 小屋に持って行くから」
という妹の声が届いた。
305 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:40:25.16 ID:rwDqWCbpo
杏子が休憩小屋に到着すると、リンゴを齧っていた父が申し訳なさそうに、
「いやあ、スマン。 草刈機はどうも苦手でな…ほら、あの固いものに刃が当たった時の…チュン、って弾かれるやつ…
あれビックリするよなあ…いやあ…参ったよ…石にぶつかると火花がでるしなあ…とうさん怖くなっちゃったよ」
と、言い訳をしながらペコペコと頭を下げ始めたので、杏子は溜息をついて、
「親父、あたしだよ」
と、教えてやった。
「杏子、来てたのか。 仕事はどうしたんだ?」
「専務に任せて、休みとった」
「何でだ? 連休はまだだろう?」
「人助け、してるんだよ」
306 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:41:25.48 ID:rwDqWCbpo
父は、疑うような視線を杏子に絡みつかせながら、
「困っている人が居るなら、私のところに連れてくればいいんじゃないのか?」
そう言った。 正論だと杏子は思ったが、正論だけでは人生をやっていくことは出来ない。
それはこういう時のための言葉であり概念なのだと、杏子は思った。
「あたしが、あたし自身で助けたい人なんだ」
その芯のある語気に、更に視線に織り込まれる疑いの色を濃くしながら、父は杏子の次の言葉を待っているようだった。
「あたし…好きなんだ。 その人の事…」
迷いを振り切るように、杏子はそう言った。
言った後で、杏子はこんなところで時間を潰している自分の行動を後悔した。 早くアパートに帰らなければならないと思った。
307 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/23(土) 18:42:16.71 ID:rwDqWCbpo
「どんな…男なんだ…?」
絶望を含んで放たれた父の言葉は、杏子にとって最も重いものだった。
…「男」…普通なら、そう考えるよな…
だけど、あたしは…
まどかと楽しそうに話すさやかの姿が脳裏に浮かんだ。
杏子はそれでも、と思った。
それでも、自分の気持ちは―
「女の子なんだ…その人…」
小屋の中が、凍りついた。
ボトボトっ、と何かが落ちる音がし、そっちを見やると、妹が開け放たれた小屋の入り口に立ち、呆然と杏子を見つめていた。
杏子の足に何かが触れた。 転がってきたリンゴの感触だと思った。
部屋の中に、妹が落としたリンゴの香りが甘く広がった。
耳に届くのは、外でせっせと受粉の手伝いをしている小さな蜂の翅音だけだった。
315 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:02:16.23 ID:3AS1Px5+o
ほむらは、午後になって完全にもとのやる気のない雰囲気に戻った捜査チームに絶望していた。
他の捜査員は、茶をすすりながらテレビを見たり、柔道場や剣道場に最早趣味となった武道の稽古をやりに行ったりしている。
そして一人では何も出来ないことを知って、急速にその雰囲気になびき溶け込もうとしている自分をほむらは激しく嫌悪した。
トイレに行き、手洗い場で冷水を顔に浴びせかけ、自らを叱咤した。
そしてふと、鏡に写る自分の顔を見たとき、ほむらは動けなくなった。
玉になった水道水が濡れた前髪や顎から滴りつづけている、自分の顔―
ひどい顔だと思った。 疲労と苛立ちが深く刻み込まれたような肌に、ある種の石のように冷たくそこにある二つの眼―
ほむらの心は急速にまどかを欲した。
まどかの優しい瞳と温もり、愛情のこもった料理で、濁りきった自分の魂を浄化しないと、恐ろしいことになると思った。
鏡の中の自分は、あの優しいまどかとはまるで別の生き物のようだと、ほむらは思った。
316 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:03:50.84 ID:3AS1Px5+o
「愛してる…」
無意識にそう呟いていたほむらは、自分の顔とその言葉に何の感情も入り交じってはいない事に、また絶望した。
「愛してる」
もう一度、すがるように放った言葉も、何の質感も無く冷たい洗面所に浮かんで消えた。
「まどか、愛してる」
鏡に両手を付け、もたれるように張り付いて、ほむらは震えながらまた、そう呟いた。
その眼からは、涙が溢れて頬を伝っている。
ほむらは、昨日からずっと仕事に夢中になり、まどかを放り出していたことに、この時漸く気がついた。
317 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:04:24.40 ID:3AS1Px5+o
自分に寄り添ってこようとするまどかを、突き放して仕事を続けていたのだ。
窓際族だったほむらは、人生の充足をまどかによって得、まどかはそれをほむらによって得ていた。
仕事にかまけ、そこから充足を得たほむらは独りまどかを置き去りにしたことに、気が付かなかった。
昨夜の、そして今朝の、まどかの悲しそうな、消え入りそうな声がほむらの脳裏によみがえる。
「ごめんなさい…まどか…ごめんなさい…」
崩れるように項垂れて、鏡から顔を離したほむらに、人としての表情が戻った。
捜査の決着は決してつかないものの、彼女がかき集めた資料によって、やらなければならない仕事は山積みだ。
今日も定時には帰れそうにない。
だけど、ほむらは思った。
だけど、今日帰ったら、うんとまどかに優しくしてやろう。
抱きしめて、キスをして、彼女の作った料理を褒めてやろう。
それが待っていると思うだけで、たった独りでも仕事を頑張れるような気に、ほむらはなった。
318 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:05:13.40 ID:3AS1Px5+o
杏子は、妹の運転する、農場との行き来に使われる古いジムニーの助手席で、縮こまって俯いていた。
板バネのスプリングが悪路のギャップに軋んで、杏子の体が小刻みに、上下に揺さぶられる。
硬いシートは揺れるたびに杏子の体をはねのけるようだ。
そのたびに、カツン、カツンとシートベルトが杏子の肩に食い込んで、彼女を嫌うシートにその体を押し付けた。
ガラガラとうるさい砂利道が終わり、滑らかな舗装路に出たところで、妹が、
「お姉ちゃん」
と、静かに口を開いた。
杏子は答えることが出来なかった。
妹が、続ける。
「お父さんはああ言ってたけど、私、お姉ちゃんの事を応援するよ」
それを聞いた杏子は、泣き出しそうになるのを堪えるのが精一杯で、また何も言葉を発することが出来なかった。
319 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:06:08.03 ID:3AS1Px5+o
「お前は、魔女だ! 二度と顔も見たくない! 出て行け!」
自分の娘がレズだと知って、父が杏子に放った激情の言葉であった。
キリスト教から派生した彼の教えにおいて、同性愛ははっきりと罪であった。
さっきからその言葉が、何度も、何度も脳内で繰り返されている。
杏子は、怒り狂ってそう叫んだ父に勘当された。
そしてすべてを失った。
自分に残されたのは、幾らかの貯えと、受け入れられそうにないさやかへの想いだけだった。
妹がアクセルを踏むたびに、3気筒の小さなエンジンがうなり声を上げ、
その非力を補うターボチャージャーが空気を圧縮して送り込むタービン音が隙間風のように杏子の心を冷やして行く。
それはギアチェンジの度に、途切れてはまた盛り上がるように鳴った。
それらはまるで、杏子を何度も何度も攻め立てる父の言葉のように、彼女には聞こえた。
320 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:06:58.61 ID:3AS1Px5+o
「独りで悩まないで、辛いことがあったら相談してね。 お父さんの説得も、続けてみるから」
見滝原のアパートまで杏子を送ってくれた妹が、そう言い残してジムニーを発進させた。
杏子は見えなくなるまでそれを見送ってから、アパートの階段を登っていった。
さやかの部屋の前に立ち、杏子は自分に気合を入れて、笑顔を作り、よし、と言って扉をノックした。
「あ、杏子ちゃん、おかえりなさい」
出迎えてくれたのがまどかだったので、杏子は気持ちが折れそうになった。
何とか笑顔を崩さないように耐え、杏子が部屋に入ると、狭い風呂場から、湿気を含んだ石鹸の香りが微かに部屋に漏れている。
ベッドのさやかからも、シャンプーの香りがする。
まどかからも、そういえば同じ匂いがしたような気がした。
321 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:08:08.30 ID:3AS1Px5+o
「さやかちゃんと一緒に、お風呂に入ったんだよ」
「うへへ…隅々まで見ちゃったからねー。 まどかは私の嫁になるのだー!」
二人でお風呂…その言葉が、絶望で頭を真っ白にしびれさせ、杏子はふらついてその場に座り込んだ。
「杏子ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
杏子はそう言って駆け寄ってくるまどかをはねのけたい衝動に駆られた。
まどかは何も知らない、無垢な瞳でヘタリ込んだ杏子を心配そうに見ている。
杏子はそんなまどかに、殺意に近い嫉妬を冷たく燃やしていた。
杏子は胸を焦がすその衝動にグッと耐え、ぎこちない笑顔を作って持ってきた紙袋を軽く持ち上げ、
「リンゴもらってきたんだ。 食うかい?」
そう言って機械的に立ち上がり、台所に向かってリンゴを切り始めた。
322 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:08:49.27 ID:3AS1Px5+o
白くぼやけた頭を抱えて、ストン、ストンとリンゴを切りながら、自分は何をしているのだろうと考えている。
まるで、ロボットのように、全く違う自分を遂行しているような気分になる。
二人の笑い声が聞こえる。
一緒に風呂場でシャワーを浴びる二人の姿が脳裏に浮かんだ。
狭い浴室で、肌をこすりあわせながら互いの体を…
トン。
リンゴを切る右手に思わぬ力が入っていて、杏子はまな板を叩いた果物ナイフの音に、ハッと我に帰った。
先が鋭く尖ったステンレスの刃が、暗い台所の精一杯の明かりを受けて、水族館の水槽を泳ぐ魚のように鈍く輝いていた。
323 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:09:20.03 ID:3AS1Px5+o
「おう、お待たせ」
切ったリンゴを持って、杏子がさやかのベッドの横にしゃがみこんだ。
「うん、美味しそうじゃん」
さやかにそう言ってもらい、杏子の中に温かいものが少し戻ってきたようだった。
「うちの農場で取れたんだ。 不味いはずがないさ」
「皮はむかなくていいの?」
まどかであった。
「てめー、皮は一番いいんだぞ! ポリフェノールとかいうのが豊富なんだ!!
それに皮を剥くなんで邪道だろ!! リンゴは皮も食べられるんだから、粗末にしたらいけないんだぞ!!」
まどかの何気ない言葉に、抑えこまれていた杏子の感情が突沸した。
324 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:09:52.75 ID:3AS1Px5+o
「…ごめんなさい…」
まどかは杏子の強い声に、小さくなってしまった。
「ちょっとあんた、言い過ぎなんじゃない?」
まどかに同情するさやかの言葉が、杏子の胸に突き刺さる。
「さ…さやか…」
感情をぶちまいた後の空虚の中に、自分を責めるさやかの言葉が入り込み、杏子の体も縮こまってしまった。
部屋に、暗く気不味い沈黙が降りてきた。 もう日が沈んでいる。
外の暗がりを見て、部屋の電気が一日中つけっぱなしだったことに杏子はその時気がついた。
325 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:10:40.58 ID:3AS1Px5+o
「私、もう帰るね」
沈黙を振り払うように、まどかがそう言って立ち上がった。
「も…もう帰るのかい…?」
杏子はそのまどかの言葉に、深い安堵を感じた。 流石にもう帰る時間だろう、そう思って本心はそれに賛成していた。
これでふたりきりに戻れる。
そう思って踊り上がりそうになる嫌な自分を感じてもいた。
それを恥じる部分の心が、杏子を立ち上がらせ、まどかを引き止める振りをさせたのだった。
「もうそろそろ晩ご飯を作らなきゃいけないし…」
「…そっか、そうだよな…」
杏子は呆気無くまどかを引き止める行為をやめた。
そして次の瞬間には彼女を見送る体勢をとり、一緒に玄関に歩み出していた。
326 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:11:06.92 ID:3AS1Px5+o
「杏子ちゃん、ごめんね」
外に出たまどかの言葉に、杏子はぎくりとした。
「二人きりのとこ、邪魔をしちゃって…」
そんなまどかにつられて、杏子もブーツを履いて外に出た。
「あ…あたしこそ、変なことで怒っちゃって…」
鉄の階段を降りきった辺りで、まどかはその表情を強ばらせて、
「さやかちゃん、おかしかったの…」
と、言った。 話題が変わったことは杏子にも明白で、彼女もまどかと同じ表情になり、
「何かあったのか?」
と、聞き返した。
327 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:11:41.93 ID:3AS1Px5+o
「一緒にお風呂に入った時ね…さやかちゃん、海に行きたいって、言ったの」
「海?」
「その時の眼が、とっても怖くて、さやかちゃんが別人になっちゃったみたいで…とても怖くて…」
杏子は、血の気が引いていく自分を、俯瞰しているような気分に襲われた。
「体を洗ってあげてる時も、ずっと動かなくて、私は人魚姫だ、とか、そんな事をブツブツ言ってたの…」
さやかは、変態紳士になる寸前だったのだ。
治ると思っていた。
看病していれば、さやかは治ると思っていたのだ。
その自分の考えが、甘いモノだったのだと、杏子は思い知らされたような気分だった。
328 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:12:31.70 ID:3AS1Px5+o
「怖いの…さやかちゃんが別の何かになっちゃいそうで…とても怖かったの…だから杏子ちゃんが帰って来たとき、とても嬉しくて…
ねえ、さやかちゃんの病気、治らないのかな? 私どうすればいいのかな…?」
杏子は溜息をついた後、まどかの肩をしっかりと抱き、
「あいつはあのままだと、あんたの言った通り別の何かに乗っ取られちまう。
それを治すクスリをもらってこようと思ったんだが、そいつを持っていた久兵衛が死んじまって、手に入らなかった」
「え…? 久兵衛さん死んじゃったの…?」
「ああ、あいつはさやかをおかしくしたクスリを取り扱う役目を担っていた。 でももうあいつはいねえ。
だからあいつから手に入れようと思っていた解毒剤もパーなんだ。
それでな、頼みがあるんだ」
「頼みって…?」
「あのクスリに絡んだ事件を捜査していた警察官が、あんたと一緒に暮らしている、暁美ほむらさ。
だからあいつに頼めば、押収した資料の中から、解毒剤を分けてもらえるかもしれなかった」
「どうして…ほむらちゃんは解毒剤をくれないの…?」
「久兵衛と取引してたとき、あんたにバイトをさせようとしただろ?
それであいつキレちまってさ…もうあたしには協力しないって、そう言うんだ」
「酷いよ…そんなのって無いよ…」
329 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:13:25.48 ID:3AS1Px5+o
「だから頼む、あんたから頼んで、解毒剤をもらってきてくれ!
だけど、無断で捜査資料を他人に譲渡するなんて、当然犯罪だ。
それでもし不都合を被ったら、あたしが何とかする。 だから頼む、美樹さやかを助けるためなんだ!!」
まどかは、力強く頷いた。
「すぐに持ってくる。 ほむらちゃん、お仕事の資料を自宅に保管しているの。 その中を探して、すぐに持ってくるから」
杏子は、指で注射器の大きさに空をなぞり、
「長さはこれくらい、太さはこれくらいの、緑色の油性ペンみたいな形の自動注射器だ。
皮膚に押しつけると針が飛び出すタイプだから、一見すると注射器には見えないかもしれない。
それがビニールの、透明な包装に入っている」
死んだ久兵衛の手の中で握りつぶされていた注射器を想像しながら、そう、まどかに説明した。
「分かった。 探して、必ず持ってくる」
そう言って走りだしたまどかを、杏子は祈るような気持ちで、見えなくなるまで見送っていた。
330 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:13:55.76 ID:3AS1Px5+o
杏子がさやかの部屋に帰ると、さやかはテレビをつけてじっとそれに見入っていた。
ブラウン管の、どこからか拾ってきたような小さく貧しいテレビだった。 それが、ぼやけた映像と音声を垂れ流し続けている。
「ニュース見ているのかい?」
さやかは先程までとは打って変わったように暗く沈んでいる。
力なくベッドに横たわり、
「何か見たり聞いたりしていないと、おかしくなりそうなの」
そう呟いた。
「そうなんだ」
胸に生じた不安を掻き消そうと、空元気でそう言った杏子に、さやかが、
「ごめんね、疲れちゃってさ…」
そう、かすれた声で謝罪した。
331 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:14:36.26 ID:3AS1Px5+o
「…何がゴメンなんだい?」
「あんたが辛そうだからさあ…まどかが居なくなった途端、あたしが元気なくなったの見て、気分悪くさせちゃったかな、と思って」
杏子はさやかに気を使わせた自分が恥ずかしくなり、ありったけの笑顔を作って、
「あたしの事は気にすんなよ」
と、言ってやった。
「あの娘は、まどかは心配性だからさ…ああやって元気なフリしてあげないと、他人の苦しみまで背負い込もうとするしさ…
だからあたしあの娘にだけは心配掛けたくないんだ…」
「なんかそう言うの分かるよ…さやかはホントに優しいんだな」
杏子はそう言いながら、さやかが横たわっているベッドの上に手を置いた。
それに、さやかが手を重ねてくる。
柔らかな感触が、温もりを絡めて二つの体を繋いだ。
「あんたの事、話してよ。 聞いておきたいんだ。 もうこれで、最期な気がするから…」
弱々しいさやかの言葉に、杏子はその手を強く握り締め、
「そんな事言うなよ! きっと治るから、弱音だけは吐いちゃ駄目だ!」
そう言うと、さやかは微かに笑って、そうだね、と頷いた。
332 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:15:22.32 ID:3AS1Px5+o
それを見て、杏子は静かな調子で語りだした。
「うちは最初小さな教会でね、最初はよかったんだけど、親父はなんだかモヤモヤ悩み続けててさあ、ある日言ったんだ。
『新しい時代を救うには、新しい信仰が必要だ』ってね。
それで教義にないことまで説教始めて、本部から破門されちまったのさ。
親父は分派したんだ、って偉そうに言ってたけど、一家は食うにも事欠く有様になっちまった」
さやかの方を見ると、真面目な表情で聞いてくれていた。
彼女の意識を独り占めしているように思えて、杏子は少し擽ったいような感覚に、肩をすくめた。
「まあ、ある日親父が助けた男が事業で成功して、大量の寄付をしてくれてからは楽になったんだけどそれまでは酷い有様だったな。
ここみたいな安アパートに部屋を借りたのもさ、その頃の気持ちを忘れたくなかったからさ」
「ゴメンね、あたしあんたの事、誤解してた」
杏子は、いいって、と、さやかに微笑みかけて、話を続けた。
333 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:16:05.85 ID:3AS1Px5+o
「貧乏な頃はさ、お金持ちになれたら、すごく幸せになれるんだろうな、なんて考えていたんだけど、金持ちになったらなったで、色々辛くってさ。
教団の資金でコンビニチェーン作って、若いのに社長やってさ、友達なんていないし、人付き合い全部が仕事なんだよ…
気が抜けない、心が開けない付き合いばっかで、へとへとになって、妹が秘書やってくれてたんだけど、去年体調崩しちゃってさ。
それからはずっと、独りぼっちさ。 そんな時、あんたに会ったんだ。 なんだかほっとけなくて、色々迷惑かけちったな。
ホントに寂しかったのは、あたしの方だったのにな」
334 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:16:41.13 ID:3AS1Px5+o
辛い事を話す声の調子で、湿ったように重くなった空気から逃れようと、助けを求めるようにテレビのほうを見ると、
「弘法大師の農業再生!」とか言う番組が始まったので、杏子は雰囲気を入れ替えるように、
「これ見ようぜ! あたし小さい農園持ってるんだ! だから農業については、ちょっとうるさいんだぜ」
そう言って、さやかに微笑みかけ、テレビの方に向き直った。
「…あんたの農園、見に行きたいな」
頬を撫でるようなそのさやかの呟きに、杏子の脳裏に父親に勘当された時の衝撃がぶり返したが、
杏子はさやかを心配させまいと、
「元気になったら、一緒に行こうな」
表情を見られるのが不安なので、さやかの方に向き直らずにそう言った。
335 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:17:58.86 ID:3AS1Px5+o
ほむらは帰宅した際、強烈な違和感に襲われた。
まどかの靴があるのに、彼女が出迎えにこなかったからである。
彼女の愛情を、失ってしまったのではないか…?
焦りが胸を締め付ける圧迫感を振り払うように、ほむらはダイニングルームに向かった。
まどかはいなかった。 隣接する台所にもいない。
夕飯も、用意されてはいなかった。
嫌な予感がして、ほむらは真っ直ぐに自室に向かった。
扉が開く―
―そこには、目を疑う光景が広がっていた。
336 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:18:31.71 ID:3AS1Px5+o
「あなたは一体、何をやっているの!? まどか!!」
扉を開く音に固まってほむらのほうを振り返ったまどかは、散らかった部屋の中に四つん這いになり、
机の引き出しを床に出し、引っ掻き回して何かを探していた。
部屋に散らばっているのは、ほむらの集めたグリーフシード事件の捜査資料である。
ほむらには、何を探しているのか見当が付いていた。
美樹さやかを助けるための解毒剤だろう。
だが、問題の本質はそんな事ではなかった。
「ほ…ほむらちゃん…これは…その…」
「あなたはいつ、私の部屋を勝手に引っ掻き回すようなはしたない女の子になったの!?」
抱きしめたいと思っていたのに―
愛したいと思っていたのに―
―そんな事が脳裏をよぎったが、自分を突き動かす衝動に負け、結局ほむらは、まどかの頬を強くひっぱたいた。
337 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:19:05.43 ID:3AS1Px5+o
短い悲鳴を上げ、まどかはひっくり返った。
叩かれた頬を抑えながらほむらを見上げるまどかに、彼女はスーツの内ポケットから細長い物を取り出して言った。
「これを探していたんでしょう? そうなんでしょう?」
透明な包装。
その中に収まっている油性マーカーくらいの大きさのプラスチックの管。
まどかは弾けるように立ち上がり、ほむらの持っているそれに手を伸ばした。
これで、さやかが助かる。そう思ったとき、まどかはほむらに突き飛ばされて仰向けに転がっていた。
338 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:19:51.31 ID:3AS1Px5+o
「お願い、ほむらちゃん! それを頂戴!!」
「ダメよ!!」
「どうして!?」
「これはお仕事の道具なの! 勝手に使ってはいけないのよ!!」
愛するまどかが、自分の部屋から泥棒のように物を持ち出そうとした―
ほむらは、その事実を受け止めきれずに、涙を流すほどの怒りにブルブルと震えていた。
一体、誰が悪いのか―
「それでも、それで助かる命があるんだよ! さやかちゃんが、苦しんでいるんだよ!!
なのに助けてあげないなんて、そんなの絶対おかしいよ!!」
―美樹さやかが悪いのか―
「杏子ちゃんだって、さやかちゃんを助けたくて、一生懸命頑張っていたんだよ!
私にアルバイトしてくれるように頼んだのだって、さやかちゃんを助けたい一心で、悪気なんてなかったんだよ!!」
―佐倉杏子か―
339 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:21:09.12 ID:3AS1Px5+o
「私、寂しかったの! だからさやかちゃん達と働けたらなあって、ずっとそう思っていたんだよ!
でもほむらちゃんが駄目だっていうし…それでもほむらちゃんが帰ってきたらその分愛してくれるから…我慢できていたんだけど…
でも…昨日みたいにほむらちゃんが忙しくなったら…もう急にもの凄く寂しくなって…」
―私?
「だから私…泥棒さんになってもいいやって…親友のさやかちゃんがいなくなったら…もう一緒に働くことも出来なくなって…
遊ぶことも出来なくなって…ほむらちゃんはお仕事で忙しいし…私はずっと独りで…寂しいままで…
…一体どうすればいいの!?」
―一番悪いのは…私…。
ほむらがそれを悟った瞬間、まどかは床に突っ伏し、声を上げて泣き出した。
340 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:22:00.22 ID:3AS1Px5+o
結論から言うと、「弘法大師の農業再生!」は杏子にとっては糞つまらない番組だった。
杏子の言う農業とは、お百姓さんが汗水流して土を耕し、
その労働の結晶として作物が実る、という勤労と対価の美しい巡り合わせの事だった。
しかし目の前でやっているのは、顕微鏡だの、折れ線グラフだのが次々に画面上に踊り出す、所謂バイテク関係の番組だったのである。
今、害虫に寄生する生物を培養し、
それを圃場に放って害虫の数をコントロールするとか言う、邪道とも言える方法が画面上で検討されている。
杏子はチャンネルを変えたくなったが、さやかがそれに食い入るように見入っていたので、それができないでいた。
「こんな感じ」
さやかが不意にそう呟いたので、杏子は何が? と言って画面とさやかの顔を交互に見つめていた。
341 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:23:23.79 ID:3AS1Px5+o
テレビの画面では、タマゴヤドリバチとか言う微細な蜂が、蝶の卵の中に自らのそれを産み付け、
それが孵化し、蝶の卵を食べながら成長していく過程が、世界初の映像ですとか何とか言われて紹介されている所だった。
「あたしね、魂とか、心とかって、卵の形をしていると思うんだ…」
さやかがあまりにも真面目に画面を見ながら話をしているので、杏子はゴクリと唾を飲んで話に集中した。
「あの黒いクスリを飲んだ時ね…きっと私の魂に、こんなふうに別の卵が産み付けられたんじゃないかな、って思うの。
それがだんだん、私の魂を食いながら成長してきて、いつか、きっとそう遠くない未来にね…」
さやかはテレビ画面に指をさした。 その手は震えている。
杏子も、その手につられるように画面に目をやった。
画面では、蝶の丸い卵を食い破って、ずんぐりと黒光りした小さな蜂が出てくるところだった。
「…こんなふうに、空っぽになった魂を食い破って、別の何かが生まれるんじゃないかって、思うの」
杏子は、背筋がゾクリと冷えるのを感じた。
画面の中、蜂はカラだけになった卵を残して、飛び去って行った。
342 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:23:56.59 ID:3AS1Px5+o
まどかは、悲しみの化身になったように泣き叫び続けていた。
嗚咽の合間に、「さやかちゃんを助けて」と、「お願い」そして「さやかちゃんが死んじゃうよ」 この3種類の言葉を順不同で繰り返していた。
「お願い」と、何度目かにまどかが叫んだ時、目の前でうずくまっているこの姿勢は土下座なのだとほむらは気が付いた。
ほむらがいたたまれなくなってまどかを起こそうとすると、信じられないくらいの力で振りほどき、
元の姿勢に戻ってまた「お願い」と叫んだ。
私が悪いのか…
私がまどかを、こんなふうにしたのか…
私が一番大事な人を…私の中の揺るがないものを―
―私自身が揺るがせたのだ。
343 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:25:17.39 ID:3AS1Px5+o
ほむらは力いっぱいまどかを抱き起こした。
まどかは土下座の姿勢に戻ろうとしたが、ほむらはそれをさせなかった。
「美樹さやかを助けたいなら、立ちなさい、まどか!」
まどかは動きを止め、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、ほむらを見上げた。
まだ涙は止まらず、痙攣のように何度もすすり上げている。
「行くわよ、まどか」
ほむらはしっかりと頷いたまどかの手を握り締め、立ち上がった。
美樹さやかの命は、まどかの親友の命は、今じゃないと救えない―
―だけど事件は、いつか解決すればいい。
それが、命を救うことが、私の出来ること、そして今、すべきことだ。
大切な、まどかのために。
ほむらは自分のすべきこと、その優先順位を違わぬことが正義であることに今、気が付いたのだった。
344 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:25:49.10 ID:3AS1Px5+o
「…あたし、もう、駄目だ…」
すべてを投げ出したようなさやかの声に、杏子は恐ろしくなって彼女を抱き寄せた。
「そんな事言うなよ! 頑張れ! さやか!!」
「もう無理だよ…あたし…ずっと頑張ってきた…だけど…もう限界…」
さやかは、ベッドから起き上がり、杏子をまっすぐに見つめ、語り始めた。
「自分が自分でなくなる感覚にね…抗うにはどうしたら良いかって…あたし気付いたんだ…そしてそれをずっとやってきたの…」
「…何だよ…どうやるんだよ…あたしも手伝うからさ…一緒に頑張ろうよ…」
諦念が創り出したようなさやかの表情が辛くて、今まで気丈に振舞ってきた杏子の眼にも、涙が浮かんできた。
「憎むの」
「憎む?」
「色んなことを…憎み続けるの…そうすれば、自分を保てたの…」
345 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:26:34.63 ID:3AS1Px5+o
杏子はさやかの肩を強く抱き寄せ、自分の泣き顔を表情の薄れ行くさやかの顔に近づけて、
「あたしを憎んだらいいじゃないか! あんたの嫌いな金持ちだろ!!
あんたにずっと付き纏って、貧乏人だと見下してたこのあたしを憎めよ!!」
そう叫んだ。
さやかはそれを聞いて、少し笑ったようだった。
「それは無理…」
「え…?」
「だってあたし…あんたの事、もう嫌いじゃないし…」
さやかの眼には、見る見るうちに涙が溢れていった。
杏子はそれを見て、宝石のようだと、永遠の輝きが生まれるときのようだと思った。
346 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:27:18.72 ID:3AS1Px5+o
「さやか! 頑張ってくれよ!! もうすぐまどかが解毒剤をもってきてくれるから…!!
だからもう少しだけ、頑張ろうよ!! なあ、さやか!!」
ポロリと、杏子の眼から涙がこぼれ落ちた。
それを合図にして、堰を切ったように次々に涙が溢れ、視界を濁す。
杏子は、さやかの顔を見ていたくて、何度も、何度もそれを拭った。
「あたし、あんたの事が好きなんだ!! だから側に居続けてくれよ!! 居なくならないでくれよ!! さやか…さやかぁ!!」
杏子が涙を拭うと、さやかの眼に溜まったそれも、今にもこぼれ落ちそうになっていた。
「あたしのために、こんなに一生懸命になってくれる人が居たのに…あたしはそれに気が付かなかった…
そればかりか…あんたの事、ずっと避けてた…大嫌いって…そう思っていた…」
「さやか…さやかぁ…」
「ねえ…本当はこんな事言うのもおこがましいんだけど…」
「そんな事あるかよ! 何でも言ってくれよ!! あたしはあんたのためなら何でもするからさあ!!」
「ねえ杏子…怖いよ…助けて…助けてよ…自分がなくなるの…怖いよ…ねえ杏子…」
347 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:27:52.26 ID:3AS1Px5+o
「助けてやるよ!! だからあたしを見るんだ!! もうすぐクスリが来るから、それまで一緒に頑張ろうよ!! お願いだから、あたしを見てよ!! 憎んでくれよ!!」
「もう見えなくなってきた…真っ暗になっていくの…ねえ…これって罰が当たったのかな…
あんたの気持ちに気が付かずに、あんたを嫌い続けたあたしへの、罰なのかな…ホントに…救いようが無いよね…」
「見えなかったら、あたしの声を聞くんだ!! ずっとしゃべり続けるから、聞くんだよ!! さやか!! さやかあ!!」
「ごめんね…遠いの…あんたが何いってるのかも…分からなくなってきた…
ごめんね…あんたに迷惑ばかりかけてさ…あんたの気持ちに気付いてあげられなくてさ…最低だよ…あたしって―」
「さやかあああっ!!」
「―あたしって、ほんとバカ…」
さやかの頬を涙の粒が滑り落ちた。
そしてさやかは、その涙の粒を追うようにがっくりと項垂れて、座り込んだまま震えだした。
「さやか!! しっかしりしろ!! さやか!! さやか!!」
348 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:28:57.47 ID:3AS1Px5+o
さやかのその様子は、変態紳士になって杏子に襲いかかる前のナカノさんの姿そのままだった。
羽化する直前の蛹のようなその姿に、杏子はもうダメかもしれない、そう思った。
果物ナイフの鈍い輝きが脳裏をよぎった。
さやかがいなくなったら、もうあたしには何も残らない…
あれで変態紳士を刺して…あたしも…さやかと一緒に…
―台所へ行こうとしたその次の瞬間
玄関の扉が開く音がし、足音と共に杏子の前に割り込んだ人影―
「さやかちゃん!! お薬だよ!!」
まどかだった。 杏子がそれに気づいたとき、さやかの腕には既にまどかによって解毒剤の自動注射器が突き立てられていた。
「まどか!! 離れなさい!! もし間に合わずに変態紳士化したら危険だわ!!」
杏子の後ろには、拳銃を構えたほむらが控えていた。
その声に、まどかがさやかから離れた。
注射器は、さやかの腕に突き立ったままだった。
349 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:29:42.01 ID:3AS1Px5+o
杏子がじっと見ていると、さやかがぶるっと、身震いをして、ベッドに倒れ込んだ。
見開き輝いている変態紳士の眼に、また宝石のような涙が浮かび、それが頬をなぞる線を描いた。
「海が…見えた…人魚の…海…」
自分の涙を海と見間違えたのだろうと、杏子は思った。
さやかの体は、そのまま動かなくなった。
350 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:30:11.15 ID:3AS1Px5+o
・・・
351 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:31:15.47 ID:3AS1Px5+o
―結局あたしは、あの後すんなりと会社に戻ることが出来た。
休んでから日にちも経っていなかったし、何事もなかったようにあたしは今社長室の机にすわっている。
親父も、妹に説得されたのか、あたしを受け入れてくれた。
目の前では、新人の秘書があたしのスケジュールをたどたどしく読み上げている。
この秘書に対して感じるのは、不満だ。 あの見滝原での出来事以来、あたしの中で何かが不満となって日常のすべてを犯している。
すべてのものが、何かしらの不満を含んでいるようになったのだ。
見滝原店の成功を見届けて、あのアパートを引き払ったとき、あそこに、永遠に忘れ物をしてきたような感じがする。
不満は、そこから来ているみたいだ。
でも、今あそこに戻ったところで、その忘れ物は取り返せやしないのだろう。
なら、忘れたままでいい。 そう思う。
352 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:32:06.72 ID:3AS1Px5+o
まどかとほむらは、休暇中に海の見える街に旅行にいく計画を立てている。 それにあたしも誘われている。
まどかが、海に行きたいと言ったのだそうだ。
だけど海はまだ冷たいから泳げないってことで、海を見ながらプールで泳げるホテルを、ほむらが探したらしい。
まあ、あの二人と休暇を過ごすのもいいと思う。
見滝原で見つけた、あたしの大切な友達だ。
神経をすり減らすこと無く付き合える、貴重な二人。
353 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:32:38.40 ID:3AS1Px5+o
グリーフシードの流通やぶっ続けは、久兵衛の死によって一旦収まったものの、また再開され始めたらしい。
あたしは、たった独りで戦うほむらを援助してやろうと、
うちの会社の情報部の中に極秘にチームを作らせ、捜査のサポートをさせることにした。
それによって、本当にこの事件が終結するのかは分からない。
世の中には、追いつめられて無茶な働き方をせざるを得ない人間も沢山いるのだから。
正しいことだけでは回らない世の中…そんなもどかしさも、私の不満の一端だ。
354 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:33:21.95 ID:3AS1Px5+o
「―社長、本日のスケジュールは以上です。 よろしいですか?」
また不満の声がする。
「あのなあ、よろしいですかじゃねえっての!!」
あたしの一番の不満―
秘書は、怒鳴ったあたしを見て首をかしげている。
あたしが何を不満に思っているか分からそうなこの態度
本当に、不満そのものだ。
「ふたりきりの時は、杏子って呼んでくれって、言ったじゃねえかよ、さやか!!」
秘書はいたずらっぽい笑みを浮かべて、
「すみませんでした、社長」
と言いやがった。
あたしの不満は、まだずうっと、続きそうだ。
さやか「さやかちゃんイージーモード」 完
355 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 18:34:06.63 ID:3AS1Px5+o
終了です。
357 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(福岡県) :2011/04/24(日) 19:26:53.02 ID:mIqbHkfdo
うおおおおおおおおお!!
最後の数レスまでどっちに転ぶかわからんかったからすごいドキドキした
超乙! 358 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チリ) :2011/04/24(日) 19:28:51.92 ID:rJrycE2ao
乙っちまどまど! 360 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(空) :2011/04/24(日) 20:38:24.35 ID:L61HFrbw0
乙でした!
こんなビターで退廃的なまどマギSS見たの初めて。本当に面白かった。
設定・配役からアニメ本編に絡む台詞やストーリー展開も完璧。
マミさんは悲しかったけど、あの世で久兵衛と今度こそ幸せになれてるといいな。
ほむまどもよかった。ほむらの考え方や行動は一般的に見ると行き過ぎだけど、「暁美ほむら」として考えると、この状況や役回りならこんな感じかもと想像がつく。まどかもブレないね。
林檎切るシーンでゾッとしたけど、早まらなくてよかった。さやかと向き合って叫び続ける杏子のシーンが悲しいわ熱いわで心中穏やかじゃないww
終わり方も好みだわー。新人秘書とか聞いた瞬間「よっしゃあああ!」ってなった。
長文感想スマソ、それくらい面白かったんです。 361 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 21:36:03.42 ID:3AS1Px5+o
>>360
いえいえ、感想ありがとう。
約一ヶ月間描き続けた甲斐があったというものです。
362 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2011/04/24(日) 21:44:04.90 ID:bHtgc5TDO
あなたが神か…
素晴らしいSSをありがとう 365 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(静岡県) :2011/04/25(月) 00:49:41.71 ID:8I3z3Vge0
ハッピーエンドでよかった・・・みんな揃っての大円団はいいものだね!
ん・・・なんか1人忘れてるような・・・ 262 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) :2011/04/23(土) 13:03:07.37 ID:iZEnY1rRo
乙ー
まさか久兵衛に些かでも同情する事になるとは… 366 :
VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(埼玉県) :2011/04/25(月) 01:14:07.63 ID:Ouc8kLSco
作者様の才能が妬ましいと思ってしまうくらい素晴らしい出来でした。
本当に時間を忘れて読み続けました。
こんな素晴らしい物を読ませてくれて本当にありがとう。
マジで衝撃的に良かったです。
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