487:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:36:14.23
ID:5F36JuUh0
高校三年生の夏は想像以上の忙しさだった。
蝉の大合唱をBGMに照り付けられたアスファルトを踏みしめながら、私は人生で十八回目のこの夏の記憶を掘り起こす。
まず第一に、受験勉強。
私には明確な将来の目標がなかった。双子の妹である日菜のように、アイドルとして天下を取るだなんていう崇高な、ともすれば酔狂とも表現される夢というものがなかった。頭の内にあるのは、人並みの仕事に就いて人並みに幸せでいること。それだけだった。
だから、担任の先生から勧められた国立大学を目指すことにして、日々勉学に勤しんでいる。
488:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:36:43.31
ID:5F36JuUh0
次に、ロゼリアのこと。
私たちの音楽に言い訳はない。ある程度の考慮はするけれど、やるからには徹底的にやりきるのが私たちのやり方だ。ロゼリアというバンドが頂点を目指すと決めた以上、妥協は許さず、私たちの音をとことん追求している。
高校最後の夏休みだってそれに変わりはない。気の置けない親友たちと共に、日々練習やライブに精力的に取り組んでいる。
489:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:37:10.59
ID:5F36JuUh0
それから、風紀委員の仕事。
学年も一番上になって、私は風紀委員長になった。当然それだけ責任も仕事も増す。それと、生徒会長になった白金さんが困っていればそれを放ってはおけないから、生徒会の仕事も少し手伝うようになった。
ただ、今は八月の半ば。夏休み期間中は特にやることもないので、現状ではこれに割く時間は少ない。
490:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:37:38.32
ID:5F36JuUh0
この三つが交互に入れ替わり、時には一緒になってやってくる夏の日々。確かに忙しいは忙しいけれど、それでも私は毎日が充実していると感じていた。この日常を楽しいと思っていた。
けれど、往々にしてそういう時こそ自分自身の体調を気にするべきだという思いがある。
弓の弦と一緒で、常に張りつめていたのであれば、いずれ緩みきって矢を放てなくなってしまう。もしくは引きちぎれて、使い物にならなくなってしまうかもしれない。
大切なのはメリハリだ。やる時は全力で物事に取り組む。そして、休む時はしっかり休む。何事もそういう緩急が大切なのだと私は常日頃から思っている。
ここ一週間は塾やスタジオに入り詰めで、ずっと肩に力を入れてきた。だから今日一日はしっかりと休み、また明日からの英気を養う日だと決めてある。であれば徹底的に気を休めるのが今日という日の正しい在り方だし、そのためにはまず落ち着ける場所に行くことが大切なのだ。
そんな言い訳じみたことを頭に浮かべながら、私は茹だる炎天下の中、商店街に足を運んでいた。
491:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:38:14.63
ID:5F36JuUh0
◆
もう目を瞑っていてもたどり着けるのではないか、というほどに歩き慣れた道を往き、商店街のアーチをくぐる。通りにはいつもよりも人が多く、左右の軒先を見渡してみると、お店の人や街行く人も、どこか活気に溢れているような気がした。
それらの人々を横目にまっすぐ歩き、北沢精肉店のある十字路を超えるとすぐに目当ての場所が目に付いた。私は迷わずにそこへ向かいお店のドアを開く。
カランコロン、とドアに付けられた鈴の音。それから、いつもの明るい「いらっしゃいませ」の声に出迎えられる。
「あっ、紗夜さん。こんにちはっ」
「ええ。こんにちは、羽沢さん」
続いた挨拶がどことなく嬉しそうに聞こえたのは、きっと自分の自惚れと勉強疲れのせいだろう。そう思いながら、朗らかな笑顔を浮かべて出迎えてくれた羽沢さんに、私は会釈と挨拶を返した。
492:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:38:58.23
ID:5F36JuUh0
「ご案内しますね」
「はい」
エプロンをつけた羽沢さんは、私を先導してぱたぱたと軽い足取りで空いている席へ向かう。その姿をぼんやり眺めながら後に着いていくと、言葉にするのが少し難しい気持ちが胸中に訪れる。
それは意識的に無視しつつ、「こちらへどうぞ」と案内された席へ腰を下ろす。そんな私を見て、羽沢さんはまたニコリと微笑んだ。
「今日は塾もバンドもお休みなんですか?」
「ええ。先週は毎日どちらかの予定が入っていましたけど、今日はお休みです」
「そうなんですね。いつもお疲れさまです、紗夜さん」
「いえ、羽沢さんこそ」
軽く手を振って言葉を返すと、羽沢さんはどこか照れたようにはにかんだ。その表情を見て、肩に入っていた余計な力や身体の奥底に溜まっていた疲れというものがスッと抜けるような感覚がした。
(……私はここへ何をしに来ているのかしらね)
そんな軽い自嘲で自分の本心には目をやらないようにしつつ、メニューを手に取る。
493:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:39:31.14
ID:5F36JuUh0
「お決まりですか?」
「そうね……」
頼むものは実はもう決まっていた。けれど私は迷うような素振りをして、メニューの上に目を滑らせる。どうしてそんなことをするのか、という自問がまた頭をもたげるけれど、「ふむ……」なんてわざとらしい呟きでそれも押し殺すことにした。
「すいませーん」
と、そうしているうちに、二つ隣のテーブルから羽沢さんに声がかけられる。
「あっ、はい。少々お待ちください。……ごめんなさい、他のお客さんに呼ばれちゃったので……」
「私のことは気にしないで。ゆっくり考えていますから」
「すいません。……お伺いしまーす!」
ぺこりと頭を下げて、羽沢さんはパタパタと呼ばれた席へ向かう。その後ろ姿を見送りながら、本当に私は何をしているんだろうか、と呆れたように苦笑した。
494:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:41:04.46
ID:5F36JuUh0
◆
「はい、ご注文の紅茶とチーズケーキ、お持ちしました」
「ええ、ありがとう」
私の元へ戻ってきた羽沢さんに注文を伝えて、それからフロアを忙しなく動き回る彼女の姿を目で追っていると、思ったよりもすぐに頼んだものが運ばれてきた。恭しくテーブルにカップの乗ったソーサーとお皿を置く羽沢さんにお礼を言ってから、私は改めて店内を見回す。
お店の壁にかけられた時計は午後二時を少し回ったところ。この時間なら空いているだろうと思って来たのだが、どうやら今日はお客さんが多いようだ。
「すいません、忙しい時間に」
「い、いえいえ! いつもこの時間はそんなに忙しくないんですけど、その、偶然お客さんが重なっただけなので!」
慌てたように手を振りながら、羽沢さんは言葉を続ける。
「それに、ちょうど紗夜さんと入れ替わりでほとんどの方が帰ったので……今はもう暇ですから」
495:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:41:58.58
ID:5F36JuUh0
「そうですか」
それは良かった、と返そうとして、その返答は色々な意味でどうかと思い口を閉ざす。けれどこれだけだと何か羽沢さんを邪険にしているようにも聞こえる気がしたので、私は急いで頭の中で続く言葉を探した。すぐに当たり障りのない話題を見つけたから、それを手早く言葉にする。
「そういえば、今日はなんだか商店街が活気づいていますね」
「あ、そうなんです。実は明後日にお祭りがあるんですよ」
「お祭り……ああ、そういえば日菜が何か言っていたわね」
商店街にほど近い、花咲川のとある神社で行われるお祭り。あたしはパスパレの仕事で行けないんだ~、というようなことをさして残念とも思っていないような様子で話していた、先月の日菜の姿を思い出す。
「花火が綺麗……らしいわね」
「はい。私も去年はアフターグロウのみんなと行ったんですけど、本当にすごく綺麗で……」
羽沢さんは私の注文の品を乗せていた丸いトレーを胸に抱いて、どこかうっとりした様子で目を閉じる。きっとそのとても綺麗だった花火を脳裏に呼び起こしているのだろう。
496:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:42:41.18
ID:5F36JuUh0
そんな彼女の様子を眺めながら、私も頭の中に色とりどりの鮮やかな花火を思い描いてみる。
人のあまりいない神社の境内の隅で、夜空に目を向ける。しばらくシンとした夏の夜の空気が漂うけれど、すぐに遠くから明るい光が打ちあがり、やがて轟音とともに大きな火の花が咲く。それをしみじみ眺めている私。そしてその隣には、目を輝かせた羽沢さんがいて――
と、そこまで考えて気恥しくなったから、私は小さく咳ばらいをした。
どうして花火を見上げるところを想像したのに羽沢さんのことまで鮮明に思い描いたのか。まったく、やっぱり私は勉強疲れでどうにかしているのかもしれない。
「羽沢さんは今年もアフターグロウのみなさんと行くんですか?」
誤魔化すように羽沢さんに言葉をかける。
「……いえ、今年はみんな予定が入っちゃってるみたいで……私は何にもないんですけどね。でも一人で見に行くのもなぁって感じです」
彼女は残念そうに肩を落としながら言葉を返してくれる。その顔には寂しげな表情が浮かんでいて、そういう顔を見てしまうと、私はどうしようもないくらいにどうしようもないことを考えてしまう癖があるのを最近少しだけ自覚した。
497:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:43:30.81
ID:5F36JuUh0
「それなら」
そのどうしようもない思考は私の口をさっさと開かせてしまう。いけない、と思ってすぐに口を閉ざしたけど、言いかけた言葉はあまりにもはっきりと響きすぎてしまっていて、羽沢さんにはしっかり届いてしまっているようだった。きょとんと首を傾げられ、私は観念したように――あるいは赤裸々な望みを誤魔化すように、わざとらしく大きく息を吸って続きの言葉を吐き出す。
「羽沢さんさえ良かったら、一緒に行きませんか?」
「一緒にって……お祭りに、ですか?」
「ええ。羽沢さんが嫌なら――」
「い、いえ! そんなことないですっ!」
やはり私とでは嫌だったろうか。不安になりながら続けた言葉が、大きな声に遮られる。
498:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:44:00.44
ID:5F36JuUh0
羽沢さんは「あっ」と片手で口を押えて、その頬を少し赤くさせた。それは思ったよりも大きな声が出たことを恥ずかしがっているのか、それとも何か別の理由で頬に朱がさしたのか……と、私はまたどうしようもないことを考えてしまった。
「え、えっと、紗夜さんが一緒に行ってくれるなら……はい。私もお祭りに行きたいです」
続けて放たれた言葉の真意を探ろうとして、すぐに止めた。それを考えたって仕方のないことだろう。
「それでは、一緒に行きましょうか」
「は、はいっ」
私の言葉に羽沢さんは大きく頷く。まだその頬には朱の色が淡く残っていた。
499:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:44:57.23
ID:5F36JuUh0
◆
お祭りの当日は、午後六時に羽沢珈琲店で待ち合わせだった。羽沢さんは夕方くらいまでお店の手伝いがあるし、私だって遊びに行く分いつも以上に勉強をしなければいけなかったから、ちょうどいい時間だと思っていた。そう、思っていた。
「……思っていたのだけど……ね」
しかし今の私の心境はどうだろうか。
朝、目が覚めてからはよかった。羽沢さんとお祭りに行けるということが私にやる気を与えてくれて、いつも以上に集中して机に向かえていたと思う。けれど、時計の針が中天を指し、そこから段々右回りに落ちていくと、どんどん私は落ち着かなくなってしまっていた。
今の時刻は午後三時前。数式を解く際も、英文を訳す際も、どうにも頭の中に何かがチラついてしまい、集中が出来なくなっている。
500:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:45:24.04
ID:5F36JuUh0
私はため息を吐き出して、持っていたシャープペンシルを勉強机の上に放る。そしてもういっそ開き直ってしまおうと、広げていた参考書を片付けた。
(集中できない時に無理をしても効率が悪いわ。今日はもう辞めにしよう)
そんな言い訳じみたことを頭の中で呟いて、部屋に用意しておいた浴衣へ目をやる。羽沢さんは浴衣を着ていくと言っていたから、私も急いで準備したものだ。
ゆっくりとその深い紺色をした浴衣に近づいて手を触れる。綿麻生地の触り心地が妙にくすぐったくて、私は余計に落ち着かなくなってしまった。
今の時刻は午後三時を少し過ぎたころ。羽沢珈琲店までは歩いてニ十分ほどだから、まだまだ準備をするには早すぎる。
だというのに、気付けば私は浴衣を手に持って、洗面所へ向かっていた。
501:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:46:22.29
ID:5F36JuUh0
午後六時の商店街はいつもとまったく違う様相を呈している。
至るところに提灯が下げられ、行き交う人々はほとんどが和を装い、夏の斜陽に長い影を作る。設けられたスピーカーからは賑やかなお囃子が流されて、それに合わせてご機嫌な足音を奏でる子供たちが駆けていった。
その中を、紺色の浴衣を纏った私は、目的地へ向けて下駄をカランコロンと転がしながら歩く。
やっぱり落ち着かない気分だった。それは普段は着ない浴衣を纏っているせいなのか、履き慣れない下駄を履いているせいなのか、珍しく頭の後ろで髪をお団子に結んだせいなのか、その全部のせいなのか。
そよ風が吹き、私のうなじを撫でていく。ほどよく温い、夏の風だ。
それにますます落ち着かない気分になる。そうしてそわそわしながら歩いていると、すぐに羽沢珈琲店が見えてきた。そして、その軒先に立つ浴衣の少女が目についた。
淡い水色の浴衣。両手で持った白を基調とした花柄の巾着袋。そして、やや俯きがちで、どこかそわそわしているような表情。
ああ、羽沢さんも私と同じなのかもしれないな。
そう思うと私の胸中は喜びによく似た感情の色で塗りたくられる。けれどそれが正確には何色なのかということは気にしないようにして、私は足早に彼女へ歩み寄っていく。
502:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:46:48.67
ID:5F36JuUh0
「すいません。お待たせしました、羽沢さん」
「あ、紗夜さん! いえいえ、こちらこそわざわざウチにまで来てもらっちゃって……」
声をかけると、淡い水色の上に艶やかな笑顔がパッと花開く。それを見て、多分私も同じように笑った。
それからお互いの浴衣姿を褒め合い、それに気恥しさとこそばゆさが混じった気持ちになりながら、私と羽沢さんは神社を目指す。
日暮れて連れあう街に、蝉時雨が降りそそいでいた。
ひぐらしの寂しげな声も、街ゆく人々の笑顔も、拳三つ分ほど離れて並ぶ羽沢さんも、全部がとても綺麗だな、なんて思いながら、私は羽沢さんと肩を並べて歩き続ける。
503:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:48:03.66
ID:5F36JuUh0
◆
神社の参道は多くの人で混雑していた。
境内へと続く参道の両脇には色々な屋台が幟を立てていて、それらから威勢のいい声が上がる。それが行き交う人々の喧騒と混ざり合う。なるほど、こういったことにあまり興味がない私ですら「花火が綺麗」だと知っているのだから、それほどこの花火大会は有名なんだろう。
羽沢さんとはぐれないようにしなくては、と思い、すぐに浮かんだ選択肢が『手を繋ぐ』というものだった。私は慌てて頭を振る。
「ど、どうかしたんですか?」
「いいえ、なにも。予想以上に人が多くて少し驚いただけですよ」
何を考えているんだ、と思いながら、私は羽沢さんに言葉を返す。
「そうですね……ここの花火って結構有名みたいですから。去年も人がたくさんいて、みんなとはぐれないようにするのが大変でした」
「私たちも気を付けましょう」
「はいっ」
そう言って、羽沢さんが拳一つ分、私との距離を縮める。それがまた私の中のおかしな感情を刺激してくるけど、努めて気にしないようにする。
504:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:48:33.40
ID:5F36JuUh0
「まずは……どうしましょう、紗夜さん」
「そうね。色々な屋台が出ているし、少し見て回りましょうか」
「分かりました」
こくんと頷き、羽沢さんは笑顔を浮かべる。それを見て私も笑った。
人混みをかき分けて、私たちは参道に連なる屋台を覗いて回る。
屋台は食べ物を出しているところが多かった。かき氷に綿菓子、焼きそばにお好み焼き……それぞれの屋台に近付く度に、夕風に乗って、夏の匂いと種々様々の食べ物の匂いが運ばれてくる。
少しお腹が減ってきたな、と思ったところで、「くぅ」という可愛らしい音が隣から聞こえてきた。羽沢さんを見ると、彼女は顔を赤らめながら、照れ笑いを浮かべていた。
505:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:49:07.28
ID:5F36JuUh0
「あ、あはは……その、お祭りで食べるかなって思って、お昼あんまり食べなかったので……」
「……ええ、その気持ちは分かるわ。私もあまりお昼は食べなかったから。何か食べましょうか」
「はい……」
お腹の音が相当恥ずかしかったのか、赤い顔と肩を落とす羽沢さん。その様子を見て、胸中には若干の申し訳なさと大きな慈しみが混ざったような感情が沸き起こった。私はこみ上げてくる穏やかな笑い声を喉の奥に押し止めながら、「何か食べたいものはありますか?」と尋ねる。
「えっと、その……たこ焼き、ですかね……」
羽沢さんは近くの屋台をチラリと見やる。そこには「たこ焼き」と書かれた赤い幟が立っていた。確かにそこからはソースのいい匂いがふわりと漂ってきていて、それのせいで羽沢さんのお腹の虫は元気よく鳴いてしまったのだろう。
506:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:49:56.16
ID:5F36JuUh0
「分かりました。……ふふっ」
なんだか今日の羽沢さんは一段と幼げだな……なんてことを考えていたら、とうとう押し殺しておいた笑い声が口から漏れてしまう。羽沢さんはそれを聞いて、勢いよく私の方へ赤くなった顔を向けてきた。
「さ、紗夜さんっ」
「ご、ごめんなさい……でも……ふふふ……」
謝るけれど、一度口から出してしまうと止まらなかった。申し訳なさと慈しみ、それと何か自分自身では計り難い気持ちのこもった笑い声が喧騒に溶けていく。「もう……」と羽沢さんはちょっとだけ拗ねたように口を尖らせて、それがやっぱりとても可愛らしく思えてしまう。
507:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:50:43.91
ID:5F36JuUh0
「ふぅ……。すいません、羽沢さん。思わず笑ってしまって」
そのいろんな感情が織り交ざった笑いもどうにか収まったころ、私は改めて羽沢さんに謝罪をする。
「……別にいいですよ? 紗夜さんが楽しそうで私も嬉しいですから?」
「……ふ、ふっ……」
けれど、また拗ねたような口ぶりでそんなことを言われてしまい、私の口からはやっぱり先ほどと同じものが漏れてしまった。
「紗夜さんっ!」
「ごめんなさい……一度ツボに入るとどうしても……ふふふ……」
「もう……くすっ」
「羽沢さんだって笑ってるじゃないですか」
「それは紗夜さんのせいですっ」
「ふふ……確かにそうね。それでは、お詫びと言ってはなんですが、たこ焼きは奢りますよ」
いつもよりもずっと子供っぽい羽沢さんの様子を見て、私は気付けばそんなことを言っていた。普段の姿とのギャップというものもあるのだろうけど、そういう姿を見ると、どうしても私は彼女を甘やかしたくなってしまうらしい。
508:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:51:59.07
ID:5F36JuUh0
「そ、それはちょっと悪いですよ」
「いえ、笑ってしまったのは私ですから」
「…………」
羽沢さんは少し真面目な顔をして、何かを考えこむように口元へ手を当てる。
「……分かりました。それじゃあ、こうしませんか? たこ焼きとか、分けられるものは一つだけ買って、二人だけ分け合う……っていう風に」
「一つを分け合う……」
「はい。あっ、も、もちろん紗夜さんが嫌じゃなければです!」
慌てたように言葉が付け足される。私もその答えを考える振りをして、それっぽく右手を口元に持っていく。
だけど、羽沢さんのその提案に対する答えはとっくに出ていた。彼女と同じものを食べることに抵抗はないし、私を気遣っての言葉だ。それを嬉しく思えど、嫌がって断る理由はない。
ではどうして考える振りをしてまで口元を隠したのか、と問われれば……つまりそういうことだ。
509:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:53:10.15
ID:5F36JuUh0
「そうですね。羽沢さんの言う通りにしましょう」
やおらに緩みそうな頬をどうにか抑えて、私は真面目くさってそう答える。
「は、はいっ! ありがとうございます!」
羽沢さんは飛び跳ねるようにお礼を返してくれる。それに「お礼を言うのは私の方よ」と言おうとして、ちょっと迷ってからやめた。
「いいえ。その方が色々なものをたくさん食べられますからね」
代わりに口から出た照れ隠しの言葉は、彼女にどう届いただろうか。
また少し頬を赤くさせては拗ねたようにしながら、それでも楽しそうに「えへへ」と笑った羽沢さん。
その笑顔の真意を推し量ろうとするより早く、私はたこ焼きの屋台へ足を向けた。
510:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:54:36.86
ID:5F36JuUh0
それから私たちは色々な屋台をめぐり、様々なものを二人で分け合った。たこ焼きのあとは焼きそばを、焼きそばのあとはかき氷を、という風に。
個数で分かれているたこ焼きはともかくとして、焼きそばとかき氷はそうやって食べるものではないと思ったけど、お祭りの空気というものはそういう些末なことを気にさせなくする作用があるらしい。普段であれば照れくさくて出来ないことも平然とやれるし、そのときどきの自分の本心を探るようなこともしなかった。
だから私は何も考えずに笑えていたし、羽沢さんもおそらく同じような思いで笑顔を浮かべていてくれたと思う。
そうしているうちに夜の帳が街に下りる。東の方から幾分かの星が瞬く黒い空がやってくる。
時計の針が指し示す時刻は午後八時前。もうそろそろ花火の打ち上がる時間だった。
私は羽沢さんと連れ立って、相変わらず人の多い参道の端で、言葉も少なく夜空を見上げていた。
511:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:55:33.35
ID:5F36JuUh0
人の数は私たちがここへやって来た時からますます増えているように見受けられる。だけど、その喧騒はどこか落ち着きを持ったように思えた。
時おり吹き抜ける夜風に鎮守の森がささめく。その音がやたらとはっきり聞こえるような気がした。夜空に浮かぶ月はどこか朧げで、もしかしたら明日は雨でも降るのかもしれない。
「もうすぐですね……」
隣に並ぶ羽沢さんが夜の空気を震わせる。その小さな声も朧げな形をしているのに、はっきりとした輪郭を持って私の耳を打った。
「……ええ、そうね」
その余韻を楽しむように、少し間を置いてから声を返す。羽沢さんにこの声はどう届いただろうか、と考えて、私と同じように届いていたら嬉しいな、なんて思ってしまう。
512:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:56:15.35
ID:5F36JuUh0
「…………」
「…………」
それきり無言で、私たちは夜空へ目を向ける。いつ上がるかという正確な時間は分からないけれど、やがて打ち上がる花火を待つ。
二人で何もない夜空を見上げる時間。その長さがどれくらいのものだったかは曖昧だ。もしかしたら五分、十分とこのままでいたかもしれないし、あるいは三十秒にも満たなかったのかもしれない。でも、そんなことはきっとどうでもよかった。
私は、この時間がただ嬉しかった。隣に羽沢さんがいて、同じ時間を、きっと同じ気持ちで共有しているだろうことが楽しかった。だから長さなんてどうでもいい。この時間に何ものにも代えられない価値があるというだけでいいんだ、と、いつもより大分素直にそう思っていた。
そんなことを考えていると、夜空に一筋の光が伸びる。それは遠い空の高い場所までまっすぐ昇っていき、パッと弾けて、花を開かせた。遅れて、ドン、という轟音が私のお腹の底まで響く。それを皮切りにして、次々と光の筋が空へ昇っていった。
513:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:57:10.35
ID:5F36JuUh0
花咲川に花火が咲く。色鮮やかな火の花の数々を、地球が落とした暗幕の上に描いては消し、消しては描いていく。
しばらくその光に圧倒されるよう見入っていたけれど、私はふと思い立ったように視線を落とす。
参道にいる人々はみんな夜空を見つめていた。拳一つ分の距離を置いて隣に並ぶ羽沢さんも、うっとりと夜空を見つめていた。
手を動かすだけで届く距離の横顔が、花火の光に淡く照らされている。それがなにかとても尊いものに見えてしまって、私は視線が動かせなくなる。
身体を震わす轟音と、夏の緑の匂いに混じった僅かな硝煙の香り。
人々の喧騒が別世界の出来事のように遠く感じられて、今この世界には、この一瞬だけを切り取った私と羽沢さん以外に誰も人がいないような錯覚をおぼえてしまう。
514:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:58:22.22
ID:5F36JuUh0
不意に羽沢さんも夜空から視線を落とす。そして、私の方へ顔を向けた。
視線と視線がぶつかり合う。「どうしたんですか?」という風に、綺麗な光に彩られた顔を傾げられて、私は急に照れくさくなってしまった。「なんでもありませんよ」と言葉にしないで首を振り、再び夜空に視線を戻す。
どこまでも広がる黒い空。そこに爆ぜる色とりどりの光の花たちはやっぱりとても綺麗で、感嘆のため息を吐き出す。
叶うのならば、ずっとこのままでいたい。
普段であれば、目を逸らして見ない振りをする気持ち。だけど、これをすんなりと受け入れてしまおうと思えるくらいに花火たちは煌びやかだった。
だから、この一瞬を切り取った世界を、羽沢さんとの距離を、私はきっとずっと忘れることがないだろうと思った。
515:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 18:59:15.71
ID:5F36JuUh0
◆
物事の終わりというものには常に寂しさが付き纏うもので、特に賑やかで楽しい時間が終わったあとは殊更強くそう感じてしまう。
花火はもう打ち上がり終わって、参道に並んだ屋台も全部が片付けに入っていた。あれほどごった返していた人ごみも気が付けば散り散りになっていて、惚けたように花火の余韻を噛みしめていた私と羽沢さんだけが、この風景から浮き彫りにされたような感覚がする。
夜空に静寂が訪れてから、私は何も言葉にしなかった。
この時間を終わらせてしまうのが名残惜しい。何かを話してしまえば、今日という時間が終わり、もう二度と手の届かないものになってしまうような気がしてしまっていた。
羽沢さんはどうなんだろうと思い、視線を隣に並ぶ彼女へ向ける。すると、同時に私の方へ顔を向けた羽沢さんと目が合う。
しばらく無言で見つめ合って、それからどちらともなく吹き出した。
歓楽極まりて哀情多し、とはこのことだろう。楽しかった思い出があるからこそ、終わる時にこんなにも寂しい気持ちになるのだ。ならばこの寂寥は決して悪いものではない。
それにこの時間が終わったとして、羽沢さんと私の関係が今日ここで途絶える訳でもないのだ。
516:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:00:03.18
ID:5F36JuUh0
「帰りましょうか」
「……はい」
ふぅ、と小さく息を吐いてから、羽沢さんにそう声をかける。彼女は何かを噛みしめるように頷いた。それにまた私は何とも言い難い気持ちになったけれど、今はそんなことは気にしない。
「羽沢さん」だからその気持ちに少しだけ従って、私は言葉を続ける。「一応、私の方が先輩なので……家まで送りますね」
「…………」
羽沢さんはそれを聞いて、何かを考える様に少し俯いてから顔を上げて、私の顔を真正面から見つめる。その顔には、お祭りを楽しんでいた時のような、いつもよりあどけない表情が浮かんでいた。
「……紗夜さんが遠回りになっちゃいますけど……お願いします」
そして思っていたよりずっとすんなりと羽沢さんは頷く。それにどうしてか少し嬉しくなりながら、私は羽沢さんと並んで歩きだす。
517:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:00:39.05
ID:5F36JuUh0
拳一つ分ほどの距離で連れ合う帰り道。そこに響くのは虫たちの声ばかりで、相変わらず言葉は少なかった。
だけど、会話を交わすよりもずっと雄弁に、私たちは何かを語り合っているような気持ちでいたと思う。羽沢さんはどうか分からないけれど、少なくとも私はそうだった。
浴衣を褒め合ったことも、屋台でいろんなものを一緒に食べたことも、並んで花火を見上げたことも、それらの余韻も……全てを言葉に頼らずに共有出来ていることが、この上なく嬉しい。
カランコロン、カランコロンと、二人で下駄を鳴らす帰り道。今の私たちが発するのは、きっとこの音だけでいいんだろう。
そうして静謐な気持ちを抱いて辿る家路は、往路よりもずっとずっと短い。私たちはあっという間に羽沢珈琲店に着いてしまった。
518:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:02:06.21
ID:5F36JuUh0
「すいません、わざわざ送ってもらっちゃって」
「いいえ。年長者として当たり前のことです」
軒先で向かい合って、そんな言葉を交わし合う。それからまた、私たちの間に静寂が訪れた。
次に放つ言葉は「さようなら」だろう。それが分かっているからこそ、私は別れの寂しさを胸中で燻らせてしまい、口を開けなくなってしまう。
羽沢さんはどうだろうか、と彼女の様子をうかがえば、少し顔を俯かせて、時おり私のことを上目遣いで見やっていた。
もしかしたら羽沢さんも私と同じ気持ちなのかもしれない。ある種の傲慢ともとれる思考が頭に浮かび、私は自身に向けて呆れたように小さなため息を吐き出した。
「今日はありがとうございました」
このままでは埒が明かないな、と思って、口を開く。だけど出てきた言葉は少しでも「さようなら」を遠ざけるためのもので、未練がましい自分をもう一度胸中で自嘲する。
519:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:02:53.26
ID:5F36JuUh0
「いえいえ……私の方こそ、今日は誘ってくれてありがとうございました」
「ええ、どういたしまして」
パタパタと手を振った羽沢さんの顔を見ないよう、少しだけ俯く。彼女の顔を見てしまうときっといつまでも別れを切り出せないだろうから、そのまま「それでは、」と口にしてから顔を上げた。
「私はここで」
「あっ……」
そしてそれだけ言って踵を返そうとしたけれど、羽沢さんが何かを言いかけて、私の身体は中途半端に横を向いたところで止まってしまう。
「……どうかしましたか?」
「あ……えっと……な、なんでもないです、えへへ……」
尋ねてみたけど、羽沢さんはもごもごと口を動かしてから、柔らかくはにかんだ。困ったことに、そんな顔を見せられてしまうと胸が温かくなって、余計に別れ難くなる。だけどこのままでは夜が明けるまでずっとこうしていてしまうだろう。
520:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:03:20.29
ID:5F36JuUh0
「そうですか。……それでは、羽沢さん。また今度」
私は後ろ髪を引く誘惑を断ち切って、けれども若干の未練を残した言葉を吐き出す。
「はいっ、また今度。帰り道……気を付けてくださいね、紗夜さん」
「ええ、ありがとう」
もう一度羽沢さんに軽く頭を下げて、今度こそ私は背を向けて歩きだす。羽沢珈琲店から離れていく。
521:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:03:56.71
ID:5F36JuUh0
商店街の夜道には、まるで私の行く先を示すように盆提灯たちがぶら下がっていた。
お祭りから取り残された彼らが朱色の影絵を作る。それを視界に収めながら、胸中には静かな満足感と、どこかノスタルジック気持ちがあった。
その二つの感情をおもむろに混ぜ合わせて、私はいつもよりずっと素直に考える。羽沢さんと交わし合った「また今度」。その「また今度」の中で、いつか私と彼女の関係が変わるといいな……なんて。
そう思ってからすぐ、どうしようもないことをどうしようもないくらいに考えてしまう捻くれ者の私は、自嘲の織り交ざったため息を夜空に吐き出した。
関係が変わる。それを怖がっているのは私じゃないか。赤裸々な気持ちに蓋をして、いつまでも向き合うことをしないのは、他でもない私だ。
522:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:04:24.82
ID:5F36JuUh0
「でも、いつか……」
その先は言葉にしない。心にも思わない。だけど、いつか……とだけ、もう一度胸中で繰り返した。
夏の夜風が頬を撫でていく。その風にはもう硝煙の燻るような香りはないけれど、まだ蒸した緑の匂いがあった。
おわり
523:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/16(火) 19:05:19.99
ID:5F36JuUh0
524:
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/18(木) 03:08:51.30 ID:5DlDwbfDO
乙
さよつぐ好いのう
元スレ
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1544965078/
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