【ミリマスSS】探偵百合子・新たな事件~孤島・ホテルミリオンの怪~

2021-04-13 (火) 12:35  アイドルマスターSS   0コメント  
1: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:01:51 ID:3iV

The@terBoost!で探偵役を百合子が射止めていたとして、The@terChallenge!の孤島ホラーというテーマで探偵百合子を登場させたら……という設定での劇中劇みたいな感じです。
前作(探偵百合子×劇場ミステリィ)はありますが、読んでなくても問題ないです。

【SS】探偵百合子・最初の事件~魅裏怨劇場の怪~

なお、孤島ホラーを題材にしていますが、クルリウタとは全く違う世界線です。

少しだけ長いので数日に分けて投稿する予定です。よろしくお願いします。





2: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:03:02 ID:3iV

 ホールから鐘の音が聞こえる。

 腕時計を見ると確かに長い針は十二を指している。普段なら客室の掃除を終えて自室に戻り始めていておかしくない時間だった。今はベッドメイキングを終えたところでまだ水回りが残っている。

 ため息を一つついて腕時計をポケットにしまい、乾いた雑巾を持って浴室のドアを開ける。

 気にしないようにしていたが、やはり無理のようだ。
 あの時と酷似している条件。当時のことは記憶に残っていないが奥様に教えてもらった内容は一言一句違わずに覚えている。




3: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:03:37 ID:3iV

 から拭きを終えて浴室を出る。腕時計をつけなおすと、すぐに時を刻む針の音が入ってきた。
 時計の音というのは一度気になりだすといつまでも耳に残る。特にほかに物音がないとなおさらだ。やましいことなどないのに、まるで一刻一秒を見張られているような錯覚に陥る。

 部屋の中央に立ち、ぐるりと室内を見渡した。
 ツインのベッド。窓際のテーブル。二脚の椅子。隅に置かれた観葉植物。
 大丈夫。この部屋には誰もいない。私は時計を見ずに速足で客室を後にした。

 薄暗い廊下を抜けて明るいホールに出ると自然とため息が出た。そしてため息が出てしまったことに大きくため息をつく。いつまでも気にする自分が情けない。奥様には悟られないようにしないと。
 そっと目をつぶりゆっくり息を吐いてから大階段を下りる。




4: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:04:29 ID:3iV

 奥様の待つラウンジのドアを開ける。一礼して口を開こうとしたところで誰もいないことに気付く。暖炉の火は消えていない。少し席を外されているだけのようだ。
 読みかけの経営本の隣には空になったカップが置かれている。ポットを持ち上げて残量を確認し、厨房へ向かおうとしたとき、壁に飾られた額に目が留まった。

 古ぼけた和紙に引かれたひょろひょろとした線。文字だとはわかっても読むことは難しい。いつも飾られているのだから目に留まっても気には留めないのだが、今日はなかなか目が離せなかった。

「志保、どうかしましたか」

 振り向くと両肘を抱えるようにして奥様が立っていた。
 答えに窮していると、奥様は視線を額縁へ移しもう一度私を見るとゆっくりとこちらへ歩みを進められた。




5: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:05:36 ID:3iV

「やはり無理しているのですね。しかし、もう断ることはできません。覚悟なさい」

 目を合わせることなく小さくうなずく。

 そう、後戻りはできないのだ。私にできることはこの館のメイドとして明日からの職務を全うすること。そして、何も起きないように祈ることだ。

 こぶしを固く握りしめ、奥様に向き直ろうとすると、甘く柔らかく温かいものに包まれた。

「御安心なさい。わたくしがいます。何も心配はいりません」

 奥様の腕に包まれ、肩の力を抜いてその身を委ねた。

 そう、大丈夫だ。きっと何も起こらない。

 暖炉の火が燃える音を聞きながら、そっと目をつぶった。




6: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:07:37 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こういう話を聞いたことがある。

 街中で道に迷ったとき大きく二つのパターンに分かれるらしい。一つ目は来た道を戻ってもう一度歩きなおすパターン。もう一つはそのまま前に進むパターンだ。
 自分の場所が分かる場所まで戻り地図を見返して正しい道を探し出す前者に対し、今まで進んできた時間を無駄にしたくない後者はより一層道に迷ってしまうらしい。
 しかし、私はこの二つ目のパターンを選んでしまう理由はそれだけじゃないと思う。後者を選ぶ人間には根拠のない自信と先入観に囚われているのだと思う。例えば、島の名前を間違っていないという自信だったり、小さな港町からは一つの島にしか船が出ないはずという先入観だったり。
 ただ、人が生きていくうえで根拠のない自信も先入観も不要なわけではない。根拠のない自信は新しいことへの挑戦の原動力となるし、先入観は上手くいけば効率化につながる。
 実際に、私の根拠のない自信は探偵として一歩を踏み出すきっかけとなったことがある。




7: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:08:39 ID:3iV

「つまり、百合子さんは間違えたことを悪くないと思っている、ってこと、だね」

 後ろから飛んでくる重い言葉に振り向いて手と首を大きく振る。

「そうじゃなくて、誰にでもあることだと思うってことで」

「反省……してないことには変わりない、です」

 改めて重い言葉を吐く杏奈ちゃんにすみませんと頭を下げる。

 私、七尾百合子は後ろを歩く望月杏奈ちゃんと二人で旅行に来ている。
 宿題のない春休みを読書とネットゲームに費やしているとき、ネットゲームのモデルとなった場所がそう遠くない場所にあることを知った。一人で行ってもよかったが、幸いにもそのゲームは友人の杏奈ちゃんもプレイし
ているものだったため、私から聖地巡礼に誘ったのだ。初め、杏奈ちゃんは家業である喫茶店のお手伝いがあるからと言っていたが、せっかくだからとお姉さんたちが許可してくれたらしい。多分にお店の来客事情もあると
は思うのだが。

 何はともあれ、二人で聖地巡礼に出掛けたのはいいのだが、先程の言い訳じみた言説のとおり、根拠のない自信と先入観により目的とは違う島にたどり着いてしまったのである。




8: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:09:33 ID:3iV

「とりあえず、先に進もう。ホテルがあるらしいから事情を話して次の船が来るまで休ませてもらおう。ね?」

 努めて明るく声をかけると杏奈ちゃんは言葉少なにうなずいた。いつもこんな感じのテンションだからもう怒っていないと思う。たぶん。

 轍の続く道を砂利を踏みしめながら歩く。
 船着き場に建てられた看板にはホテルまで約二キロと書かれていたが、歩き始めてそろそろ十分は経つ。しかし、目の前に見えるのは葉がすっかり落ちた木々とその間に延びる道だけでホテルの存在は確認できない。後ろ
を振り向いても建物らしいものはなく、木々の向こうに青い海が静かにたたずんでいるだけ。決して見逃したわけではなさそうだった。

「どうか、したの」

 杏奈ちゃんが問いかけてくる。言葉が途切れ途切れなのはいつもの調子というよりは坂道続きで疲れが見えたからのようだ。

「結構歩いたからそろそろホテルが見えるかなと思って」

「ん……ホテルならさっきから見えてる、よ」

 ほら、と言って杏奈ちゃんは道の向こうではなく脇の木々の向こう側を指さした。目を凝らしてみると確かに窓ガラスが見える。

「だんだんと大きく見えてきているから、きっと……もうすぐ」




9: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:10:12 ID:3iV

 杏奈ちゃんの言葉を胸に進むと程なくして砂利道からアスファルトへ変わり、目の前に黒い建物が現れた。
 正面には太い石柱で支えられた八の字の屋根と大きな木の扉が二枚。レンガの壁は遠目から見ても長い年月が経っているのが分かるほどくすんでいて歴史を感じさせる。
一方で、玄関から左右に続く壁に嵌められた窓ガラスは綺麗に磨かれており、部屋の窓にはレースカーテンがはっきりと見えている。視線を上に向けると同じような窓の並びがもう二段あり、その上には黒々とした瓦が太陽の光を浴びていた。
 窓の数から考えるに島の大きさと不釣り合いなほどに客室があるようだ。確かにホテルと言えよう。ただ、パッと見た感想はホテルというよりも……。

「ホラーゲームに出てくる、館みたい……だね」

 私は目の前の館を注視したまま杏奈ちゃんの言葉にうなずいた。
 ホテルと聞いていたのでコンクリート製の背が高い建物をイメージしていたこともある。だが、目の前にある洋館タイプのホテルの存在も知っている。それなのに私が、きっと杏奈ちゃんも、この建物をホラーゲームの館と認識したのは人がいるように思えないからだった。




10: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:10:34 ID:3iV

 蜘蛛の巣が張っていない玄関。落ち葉一つないポーチ。窓から見えるカーテンもくすんでいない。どこからどう見て廃屋ではない。それなのに人の気配を感じないのだ。まるで、この建物に住んでいるのは人間ではないようなそんな感覚。
 足元から砂を踏む音が聞こえた。無意識に後ずさっていたらしい。

「港に、戻るの?」

 杏奈ちゃんが意外そうな目でこちらを見る。

「戻っても何もない、よ」

「でも、あのホテルっていうかホラーの館に入るのは怖いよ」

「ん、たぶん大丈夫」

 そういって杏奈ちゃんは館の屋根の上を指さした

「煙突から煙が出てる。少なくとも、誰かはいると思う」

「でも、妖怪とか怪物とかが私たちをおびき寄せる罠かもしれないし。きっと中に入ると服を脱ぐように指示されて塩やお砂糖を身体に」

「変なことを言わないでください。営業妨害です」




11: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:11:03 ID:3iV

 突如会話に混ざってきたハスキーな声に私たちは勢いよく振り向いた。

「お客様といえども奥様のホテルを貶す言葉は看過できません。慎んでください」

 竹ぼうきを手に持ったメイド服の女性は強い言葉と視線を投げてきた。

 年齢は高校生ぐらいだろうか。声色に似てスラッとした顔立ちをしている。ネコのような釣り目は怖いが、腰まで伸びた黒い髪は陽の光を鈍く反射させ美人という言葉がぴったりな女性だ。

 私は言葉に詰まりながらも謝罪の言葉を述べたが、女性は意に介さずといった調子でまっすぐ館へと向かっていった。私と杏奈ちゃんが呆気に取られてその背中を眺めているとピタリと立ち止まり、こちらに向き直った。

「ご案内いたします。ようこそ、ホテル・ミリオンへ」




12: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:12:11 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 女性に案内されて館、もといホテルの中へ入る。

 エントランスロビーは外観にふさわしく広くて豪勢だった。正面の柱には私の背丈より少し大きいぐらいの柱時計、その両脇には階段が伸びていて広い踊り場が見える。フロアは学校の一学年分の生徒が充分に収まるほど
の広さで、天井にはテレビでしか見たことがない大きさのシャンデリアが吊るされていた。

「奥様を呼んでまいります。ご自由におくつろぎください」

 女性はそう告げるとフロントのわきから奥のほうへ消えていった。
 私は瀟洒な――まさかこの言葉を使う機会があるとは思わなかった――ロビーをきょろきょろと眺める。
先程はパッと目につくものに興味がいったが、改めてまじまじと見てみると細かいところまで手入れが行き届いているのが分かる。床や調度品はシャンデリアの光をすべて反射しているかのように磨かれており、観葉植物も緑色の葉をツヤツヤと輝かせている。
何人ぐらいで掃除するのかなと考えながらソファーに腰を下ろすと、想像していなかった柔らかさに後ろへ倒れこんでしまった。




13: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:13:12 ID:3iV

「大丈夫ですか」

 タイミングというのは得てして悪いものだ。戻ってきた女性の声に笑ってごまかしながら杏奈ちゃんに手を貸してもらう。スカートをはたいて顔を上げると別の女性が立っていた。
ワインレッドのシックなドレスに身を包み、小麦色の髪は腰まで伸びている。背筋はまるで凛と咲くユリのようピシリとしている。

「背もたれのあるタイプに変えてもいいかもしれません。業者に連絡してカタログを送るよう伝えてください」

 女性がかしこまりましたと頭を下げる。

「申し遅れました。ホテル・ミリオンのオーナーの二階堂千鶴です。この度は当ホテルにお越しいただきありがとうございます」

 ゆっくりと頭を下げる二階堂さんにつられて私たちも頭を下げる。

「当ホテルは静謐な環境と美しいオーシャンビューを兼ね備えた保養に最適なホテルでございます。お客様の憩いのひと時にお役に立てれば幸甚に存じます。施設の利用につきましてはこちらの志保にお聞きください」

 二階堂さんの言葉に女性が頭を下げる。志保さんというらしい。




14: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:13:29 ID:3iV

 いや、今はそれはどうでもいい。私は間違えてこの島に来てしまったことを説明する。

「それで、次の船が出るまでここで休ませてもらえないかと思ってお伺いしたんです」

「その、持ち合わせもなくて……。失礼だってことは、分かってはいるんですけど」

 私の言葉に杏奈ちゃんが続けると、二階堂さんは顎に手を当ててしばし考え込んだ。

「志保、次に船が来るのはいつだったかしら」

「四日後でございます」

 あっさりと答える志保さんとは対照的に私と杏奈ちゃんは目を丸くして顔を見合わせた。母には日帰りと言ってあるし、杏奈ちゃんが言ったとおりお金もない。かといって暦の上では春の盛りとはいえ朝晩は冷え込むこの季節だ。野宿なんてしようものなら風邪をひいてしまう。

「あの、お金は後でお支払いしますから。次の船が来るまでこちらにお邪魔させてもらえませんか。もちろん私たちにできることは何でもします」

 二階堂さんの顔をまっすぐに見て、まくしたてるようにお願いする。

「杏奈も、お菓子作りならできます。お願いします」

 杏奈ちゃんが頭を下げた。私も同じように頭を下げる。




15: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:13:49 ID:3iV

「お二人とも頭を上げてください。元からわたくしはそのつもりですよ。若い身空のお嬢さん方に野宿なんてさせられません」

 私たちが顔を上げると二階堂さんはにっこり微笑んだ。

「ただし、仕事はしてもらいます。働かざるもの食うべからず、ですわ。何をやるかは志保に聞きなさい。それでは任せましたよ」

 そう言って二階堂さんはカウンターの奥へともどっていった。




16: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:14:28 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 私は目の前の光景に立ちすくんでいた。

 志保さんにお願いされたのは客室の清掃。場所は東棟の二階のフロアだ。
 ホテルの正面から見たときに東西にそれぞれ五室ぐらいあるなと考えていたが、まさか裏手のほうにも部屋が続いているとは思わなかった。しかし、私とて居候になろうという身だ。ただ部屋が多いだけなら二の足を踏むことはない。問題は雰囲気だ。

 廊下には「関係者以外立ち入り禁止」の立て札があり、電気は点いていない。お客さんが少ないときはフロアに誰も入れないようにしているとのことだった。カーテンはないので真っ暗ではないが、人がいないことが分かっているからか見た目以上に暗く感じる。
 これが一人じゃなければ、物怖じせずに足を進めることが出来た。しかし、杏奈ちゃんはディナーの準備のために厨房に狩り出されている。私の右にあるのは古ぼけた掃除機と雑巾の入ったバケツだけだ。
 ついさっきまで支給されたメイド服に無邪気に浮かれていた自分が恨めしい。可愛くて仕方なかった白と黒のシックな恰好が滑稽に思えてきた。




17: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:14:47 ID:3iV

「杏奈ちゃんも頑張ってるんだもん。私だって」

 スカートの裾をギュッと握り、うす暗い廊下へ足を踏み入れる。

 最初の部屋のドアノブをひねると、何の抵抗もなく扉が開いた。志保さんがカギは空いていると言っていたがその通りだった。使っていない部屋だからといって鍵をかけないのはどうかなと思うけど、それは私が考えることじゃない。

 室内は私たちがお世話になっている客室と同じ間取りだった。入り口のすぐ近くにはトイレとユニットバス。奥には二つのベッドと化粧台があり、隅には観葉植物が置かれている。

 客室の清掃は埃を払う程度でいいと言われている。とはいえ、一宿一飯以上の恩は返したいのでオーダー以上のことはやっておきたい。
 レースのカーテンを開いて窓を開け放つ。肌寒い風が入ってくると文字どおり空気が変わった気がした。

「よし、がんばろう」

 気合を声に出して、私は足元のバケツに手を伸ばした時だった。




18: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:15:13 ID:3iV

 ガタン。

 不意に聞こえてきた音に顔を上げ、周囲を見渡す。掃除機は倒れていない。客室のドアもストッパーで止めたままで開け放たれている。もちろん観葉植物が倒れたわけじゃない。
 風に揺られた枝が外壁に当たったのかなと思い、窓から外を覗く。しかし、周囲の木々の枝と建物との距離は窓から必死で手を伸ばしても身体一つ分は足りないぐらい間が空いていた。

 ガタン。

 後ろを振り向く。誰もいない。
 よく思い出そう。今の音はこの部屋からではない。遠いけれど近い場所。私はベッドの枕もとの壁をじっと見た。音は隣の部屋からではなかったか。

 このホテルの雰囲気と正体不明の音。何が存在しているかを想像するのに一秒とかからなかった。
 ごくりと喉を鳴らし、入り口に置いておいた掃除機を手に取る。そういえば幽霊を掃除機でやっつける映画があった気がすると思いながら廊下をそっと伺う。相変わらず薄暗いままだ。

 足音を立てないようにそっと隣の部屋の前に移動する。息を止めてじっと耳を澄ませてみるが何の音も聞こえない。
 汗ばむ手でドアノブを握り、一つ息を吐く。そして、ギュッと力を込めてドアを押し込んだ。




19: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:15:44 ID:3iV

「なにやってるノ」

 思わぬ方向からの声にドアノブから手がすっぽ抜ける。そのまま私は前につんのめり、開き切らなかったドアに思い切り頭をぶつけてしまった。

「ダイジョウブ? すごい音がしたケド」

 淡い緑色の髪をした女の人が私の顔をのぞきこむ。

「どうしたの、エレナちゃん」

 今度は部屋の中から人が現れた。赤っぽい髪の先がくるんとカールしている女の子だ。
 エレナちゃんと呼ばれた女の人に手を取ってもらい立ち上がると、私はお礼の言葉を述べた。

「気にしないで。ワタシが急に声を出しちゃったのが悪いんだモン」

「それで、キミはいったい誰なのかな?今日は茜ちゃんたち以外のお客さんはいないはずだけど」

 茜ちゃんというのはきっと自分自身のことを指しているのだろう。私は手短に自分の状況を説明する。




20: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:16:07 ID:3iV

「だから、シホと同じメイド服を着ていたんだ。大変だったネー」

「でも、二階堂さんのおかげで雨露は凌げそうです。エレナさんと茜さんは二人でこのホテルに?」

エレナさんは首を横に振った。

「二人じゃないよ。カオリと一緒。一応ワタシたちは未成年だからネ」

「いやぁ、茜ちゃんたちは充分に大人なんだけどね。歌織ちゃんが心配性すぎるからしょうがなくついてきてもらっているんだよ」

 そう言って茜さんは一人でしきりにうなずいている。

「まぁ、そういうわけだから今日から三日間、茜ちゃんたちのお世話をよろしくね。えーっと」

「百合子です。七尾百合子って言います」

「茜ちゃんのことは気軽に茜ちゃんって呼んでね、ユリッチ」

 ユリッチ。きっと私のことだろう。

「ワタシは島原エレナダヨ。よろしくネ」

「それじゃあ茜ちゃんたちは忙しいから。またディナーでね」

 大袈裟に手を振るエレナさんと茜ちゃんはほんのり暗い廊下に私を置いて去っていった。小説で嵐のようにという比喩を見ることがあるが二人はまさにその表現がぴったりだった。

「……掃除、しないとね」

 急に静かになった廊下でぼそりと私はつぶやいた。




21: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:16:47 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ディナーは食堂ではなく大口のお客様用の来賓室でとることとなっていた。映画でしか見ないような大きなテーブルに古めかしい燭台が並べられている光景に口にこそ出さないが私の胸は大いに高鳴った。

「分かるよ。杏奈もこういうの……好き」

 テーブルの向こう側で食器を並べる杏奈ちゃんが微笑む。分かってはいたけれどどうやら気持ちが顔に出やすい性分らしい。頬をパシリと叩いて、メイドとしての職務に戻る。




22: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:17:16 ID:3iV

 配膳が終わり程なくすると茜ちゃんとエレナさんがぺちゃくちゃと喋りながら入ってきた。その後ろには上背のある女性がついてきている。一目で上品さが分かる服装と後頭部に綺麗にまとめられた編み込みが気品を漂わせている。この人が二人の言っていた歌織さんなのだろう。

 茜ちゃんたちがめいめいの席に着くと、奥の扉から志保さんに先導された二階堂さんが現れた。

「お待たせいたしました。それでは志保、百合子、杏奈、始めましょう」

 二階堂さんの言葉に続いて三人で一礼する。

 手伝いとはいえお客様の相手をすることには変わりはない。失礼を働かないために、日ごろからカフェで接客をやっている杏奈ちゃんが志保さんと一緒に食事を提供することとなっている。
 もちろん私もメイド服を着て立っているのが仕事ではない。厨房からカートで食事を持ってくるという大事な職務がある。




23: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:17:44 ID:3iV

 重い音を鳴らしながら来賓室の敷居をまたぐ。
 二段になった鉄製のカートもまた私の心をくすぐるアイテムだった。
 いわくつきのホテルでカートを走らせるボーイ。廊下には重苦しいガラガラという音が響いている。カートには丸い蓋に覆われた料理がジッとたたずんでいる。ボーイが歩くのは真紅のカーペット。
しかし、よく見ると地面に落ちた雨粒のような跡が等間隔で並んでいる。跡を目で追っていくとカートが進むたびに生まれていることが分かる。そのまま視線を料理の入った皿に移すと真っ赤な雫がポタリポタリと……。

「百合子さん」

 杏奈ちゃんに小突かれて我に返る。気付けば二人は配膳を終えており、志保さんは二階堂さんの後ろに戻っている。私はカートから手を放しそそくさと志保さんの隣へ戻った。




24: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:18:13 ID:3iV

「調査の進捗はいかがですか」

 二階堂さんはワイングラスから口を離し、歌織さんに問いかける。桜守歌織。雰囲気にぴったりな名前だ。

「おかげさまで順調です。ネットで情報がいくらでも手に入る時代になりましたが、やはり確かな資料は現地で探すのが一番ですね」

 歌織さんはにこやかに答えた。

「そうですか。充分なもてなしができない状態ですのでそう言ってもらえるのなら幸いです」

「いえいえ。無理を言ったのは私たちです。従業員にお休みを与えていた時期だとは知らずに連絡をして、それを承知の上で予約をしたのですから」

 従業員が休んでいるということは志保さんから聞いていたが、お客様から頼まれたら断りづらいのは客商売の辛いところということだろうか。




25: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:18:33 ID:3iV

「しかし、桜守様は調査でお忙しいとしても付き添いのお二人は退屈なのではないですか。高校生で桜守様の生徒と聞いていますが」

「ええ、私が顧問をしている郷土研究部の部員です。二人には資料ではなく現地調査を手伝ってもらっていますから充実していると思います」

「現地調査、ですか」

 ナイフを持とうとした二階堂さんの手が止まった。

「この島にはわらべ歌が伝わっていますよね。ラウンジに飾られていますが」

 確か志保さんにホテル内を案内してもらったとき、ラウンジの壁に流れるような文字で書かれた額があった。なんと読むのか全く分からなかったが、あれはわらべ歌だったのか。




26: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:18:56 ID:3iV

ひのでのふもとに ごくらくじょうど

すなのかぐらは ときわのなかに 

しあわせのくもは こがねいろ 

みんなしあわせ こがねいろ




27: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:19:13 ID:3iV

 節をつけたのびやかな歌声が来賓室に響く。

「今でこそこの島にはこのホテルしかありませんが、以前はかなり栄えていました。私はこの歌はこの島がどうやって繁栄したかを表した歌だと思っています。つまり、この島を開拓した人々は”こがねいろ”を手に入れたのではないか、と」

 歌織さんの話を最後まで聞くと、二階堂さんはふいと視線を外し、ナイフを手に取った。

「この島は大きくありませんが、人の手が長く入っていない場所が多くあります。このホテルから離れることはお勧めしませんわ。特に森の中に入ることは厳に慎んでください」

「もちろんです。自分の生徒を危険な目に遭わせるわけにはいきませんから」

「そうそう。歌織ちゃんはすんごく真面目だからね。茜ちゃんたちがついてくること自体、反対していたんだから」

 茜ちゃんが茶々を入れる。




28: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:19:32 ID:3iV

「お宝を手に入れるんだから多少の危険は付き物だって思うんだよね。まぁ、噂どおり怪物が出てきたら困るけどさ。そうだ、二階堂さんはお宝のこと何か知らない? この島にずっと住んでいるんでしょ」

「野々原さん」

 歌織さんがたしなめると茜ちゃんはぺろりと舌を出した。

「それじゃあ、しほりんでもいいよ。なんでもいいからさ」

 しほりんと呼ばれた志保さんが少しだけ眉毛をひそめる。

「別にどこにあるか教えてってわけじゃないからさ。茜ちゃんたちみたいに財宝を探しに来た人もいるんでしょ? その人たちがどこを探した、とかでいいの。あっ、巷で話題の怪盗から予告状が届いたとかでも大丈夫だよ。財宝の信憑性が増すからね」

 怪盗という言葉に心が動く。ただ、ニュースで見聞きする怪盗はもっと現実的でどちらかというと窃盗団のようらしい。しかし、怪盗という響きはこのホテルにぴったりだ。月影を背に屋根の上にマントをたなびかせるルパンの画がありありと思い浮かぶ。




29: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:19:53 ID:3iV

「……申し訳ありませんが、私にお教えできることはございません。ただ、こちらの百合子さんならお役に立てるのではないでしょうか」

 妄想中に話を振られて変な声が口から洩れる。

「趣味で名探偵をやっているとのことです。きっと得意分野かと思います」

 来賓室の視線がただ一か所からを除いて一斉に私に向かってくる。

「まぁ。そうだったのですか。百合子、お客様のお手伝いをして差し上げて」

 二階堂さんが優しく微笑む。いや、優しくというよりあれは肩の荷が下りたようだというべきか。

「私からもお願いします。ぜひお手伝いいただけないでしょうか」

「茜ちゃんからもお願いだよ。ユリッチの力が必要なんだ」

「ワタシもユリコに手伝ってほしいナ。あとでサンバを教えてあげるから、ネ」

 ここまで言われて断れる度胸なんて私は持ち合わせていない。一向にこちらへ目を向けようとしない親友に恨めしさを覚えつつ、私は縦に首を小さく振った。




30: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:21:03 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「はーい、それじゃあ作戦会議を始めまーす! いえーい」

 化粧台の前に立つ茜ちゃんが大きく拍手をする。二階堂さんにうるさがられはしないかと一瞬心配になったが、ここはホテルの三階。いくらホールに続く階段に近いとはいえ不要な心配だろう。

「あの、杏奈は分かるんですけど、どうして私まで。何もわからないと申したはずですが」

「こういうのはみんなで考えたほうが楽しいからダヨ♪」

「諦めたほうがいいよ、志保」

 杏奈ちゃんの言葉に志保ちゃんは人目をはばかることなくため息を漏らす。

「さて、さっそくだけどみんなはどこが怪しいと思う」

 チュッパチャップスの袋を開けてパクリとくわえ、茜ちゃんはベッドの上にホテルの見取り図を広げた。どこから持ってきたのかなんて聞くのはきっと野暮だろう。




31: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:21:25 ID:3iV

「ん……こういうとき、ゲームなら地下室とかおっきなオブジェとかにヒントがある、けど」

「オブジェはないけど地下室ならあるわ。そんな立派なものじゃなくてワインセラーだけど」

「ワインセラーはワタシたちじゃ入れないネ。調査はお願いしてもいいかな」

「ん……大丈夫、です。志保も、いいよ……ね」

 志保ちゃんがしょうがないといった感じでうなずくのを見てエレナさんが見取り図に二人の名前を書く。その様子を見た茜ちゃんが腕を組んで首を傾げた。

「ねぇ、しほりんと杏奈ちゃんは今日初めて会ったんだよね。その割にはすごく仲が良くない?」

 茜ちゃんの言葉に杏奈ちゃんと志保ちゃんはしばらくお互いの顔を見あった。そして、杏奈ちゃんがいたずらっぽく笑って口を開いた。

「あのね、杏奈が、ディナーのデザートを作ったときに……ね」

 ここまで言った杏奈ちゃんの口を志保ちゃんが慌てて手で塞ごうとする。しかし、杏奈ちゃんは身をよじって志保ちゃんの手をスルリとかわし子どもっぽく微笑んだ。

 二人が仲良くなった理由はこの部屋に来る前に教えてもらっていた。ディナーの後、後片付けをしながら私が探偵をやっていることをばらした理由を杏奈ちゃんに聞いたからだ。
 どうにも料理の手伝いをしながらお互いの話をしているときに同じ歳だということが分かり仲良くなったらしい。探偵の件はその際に私のことに話が及んだときについ口を滑らせてしまったとのことだった。
 ちなみに、デザートの件については、杏奈ちゃんが作った子ネコのムースに志保ちゃんが話しかけていたところを目撃してしまったという話らしい。




32: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:22:20 ID:3iV

「デザートかぁ。確かにディナーのムースは最高においしかったネ」

「杏奈ちゃんはお姉さんたちと一緒にカフェをやっていて、そこのパティシエールでもあるんですよ」

「なるほどね。茜ちゃんが星三つを上げちゃいたくなる味だったのもうなずけるよ」

「そう言ってもらえると、うれしい……です」

 杏奈ちゃんはメイド服の裾をぎゅっと握って頬を染めた。

「名探偵にパティシエール、メイドさんにダンサー。そして最っっっ高にかわいい茜ちゃん! このパーティなら怪盗でも怪物でも何でも来いって感じだね」

「そういえば……ディナーの時も言っていたけど。怪物って、何……ですか」

 それは私も気になっていた。怪盗は確かにニュースになっているが、怪物の話題なんて聞いたことはない。わらべ歌にもそれっぽい言葉は出てこなかったはずだ。




33: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:22:35 ID:3iV

「この島へ来る船の中で聞いたんだけど十年ぐらい前にこの島で行方不明になった人がいてね。森で迷ったのかもしれないって捜索隊が出たらしいんだよ。それで島の反対側の洞穴の中で発見されたんだって。でも見つかったときの様子がおかしくてね」

 声を潜めて話す茜ちゃんの雰囲気につられて思わず息を飲み込む。

「シーツにぐるぐる巻きにされていたんだって。行方不明の人は夫婦だったんだけど、二人そろって洞穴の入り口で転がった状態で発見されたの」

「それって、ミイラみたいに、ってこと」

 杏奈ちゃんの問いに茜ちゃんがうなずく。

「足から頭の先までね。でも、髪の毛だけは出ていたんだって」

「でも、それと怪物は関係あるのでしょうか。その……首がなかったとか、かじられた跡があったとかなら噂の理由は分かりますけど、その、シーツで巻かれているだけじゃ」

「怪物といっても、ちょっと変わった怪物みたいらしいネ。なんでも二人が逃げ出さないようにしっかりしばってたらしいヨ。シーツの色が変わるぐらいにネ」

「それって……」




34: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:23:02 ID:3iV

 気付けば両膝をぎゅっと抑えていた。隣の杏奈ちゃんがピタリと私に肩を寄せてきた。その様子を見てか茜ちゃんが大げさに顔の前で手を振って笑った。

「まぁ、噂だからね。だいたいそんな事件があったらこのホテルもやってないよ。しほりんもそう思うでしょ」

 話を振られた志保ちゃんだったが、何も答えずにじっと膝を見ている。

「あのー、しほりん」

「すみません。今日はもう遅いのでこれで失礼します。杏奈、百合子さん、明日もよろしくお願いします」

 一息に言うと志保ちゃんはすっくと立ちあがり、こちらを振り返ることなく廊下へ出ていった。

「……コワい話が苦手だったのかな」

 エレナさんの言葉に誰も返事はしない。
 たぶん違うのだろう。そう思ってしまうほどに志保ちゃんの表情は切羽詰まっていた。

 ホールの大時計が十時を告げる鐘を鳴らす。
 志保ちゃんに言われたからというわけではないが、明日も早いからという理由で私と杏奈ちゃんもお暇することにした。




35: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:24:11 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 メイドの朝は早い。まだ窓の外が暗いうちにスマホのアラームが鳴った。
 重いまぶたを開けながら音の鳴るほうへ手を伸ばす。日中はスマホをいじれないだろうからせめてログインボーナスだけは回収しておきたい。しかし、ぼんやりした視界に映ったのはネットワークエラーの文字だった。
何度かリトライするがつながらない。ホーム画面で電波状況を確認すると圏外になっていた。隣のベッドを見ると杏奈ちゃんも首をかしげている。昨日、眠りにつく前はログインできたはずだ。
もしかしたら時間帯によってWi-Fiの電源を落としているのかもしれない。

 もったいないがログインを諦めて身支度を始める。着慣れないメイド服に袖を通し、厨房に入ると既に志保ちゃんが朝食の準備を始めていた。




36: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:24:32 ID:3iV

「おはようございます。杏奈は私と一緒に朝食をお願い。百合子さんは玄関と中庭の清掃をお願いします」

 清掃道具の場所を教えてもらい、厨房を出る。
 途中、ラウンジの電気が点いていたので中を覗いてみると、二階堂さんが暖炉の前で本を読んでいた。声をかけようか迷っていると顔を上げた二階堂さんがこちらに気付いた。その場で頭を下げると、二階堂さんはよろしくお願いしますわ、と笑顔を向けてくれた。

 玄関の鍵を開けて一歩外に出ると、肌を刺すような冷たい空気が私を襲った。清掃道具の置かれた倉庫へ小走りで向かい、中から竹ぼうきを取り出す。

 春を迎えつつある季節だけあって地面に落ち葉はあまり落ちていない。日が昇り青色が澄み渡ってきた空には白い雲がゆっくりと動いている。この調子なら夕方になってもあまり落ち葉が増えることはないだろう。

 玄関周りの掃除を終えて、中庭へと移動する。
 玄関が南向きということもあり、凹の字型に囲まれた中庭は薄暗い。それでも空の青さが目に入るので、昨日の掃除のようにビクビクして足を踏み入れる必要はなかった。

 中央の池に浮いている落ち葉をすくい上げ、石畳の通路を掃き上げる。ものの三十分ほどで綺麗になった。手元のビニル袋にたまった落ち葉は決して多くないし、こんなことは誰にだってできることだ。でも、やればできるという自信にはなる。

 清掃道具と落ち葉の入った袋を倉庫に入れて、足取り軽くホテルの中へ戻る。厨房へ足を向けようとしたとき、階段を下りてくる茜ちゃんが目に入った。きょろきょろとあたりを見わたしていて昨晩とは違った落ち着かなさを見せている。
 声をかけると茜ちゃんはちょうどよかったとばかりに笑顔を見せて私に駆け寄ってきた。




37: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:24:55 ID:3iV

「ねぇ、エレナちゃん見なかった? 起きたら隣にいなくてさ」

「いえ、今日はお会いしていませんけど」

「そっか。外にでも行ったのかな」

「どうでしょう。さっきまで外で掃除していましたけど見かけませんでしたよ。ラウンジじゃないですか」

 なるほど、と言う茜ちゃんについて行ってラウンジを覗く。しかし、中では相変わらず二階堂さんが本を読んでいるだけだった。

「海を見に行ったのかも。茜ちゃん、ちょっと行ってくるね。すぐ戻ってくるから朝ご飯は食べてていいって歌織ちゃんに言っておいて」

 そう言うや否や茜ちゃんはラウンジから走って出て行った。

「元気ですね、野々原様は。このホテルにはあまり見えられないタイプのお客様なので新鮮です」

 気付けば背後に二階堂さんが立っていた。

「野々原様はああ仰いましたが、戻られるまで朝食は待ちましょう。志保にもそう伝えてください」

 二階堂さんの言葉を志保ちゃんに伝え、配膳するだけの状態で茜ちゃんとエレナさんの帰りを待つこととなった。




38: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:25:35 ID:3iV

 朝食の時間をわずかに経過した頃に玄関の扉が開く音がした。二人が戻ってきたと思い、カートに食事を載せ始めたとき、二階堂さんからラウンジへ来るように言われた。

「エレナさんは見つからなかったんですか」

 ソファーに座り肩を落とす茜ちゃんは小さくうなずいた。

「船着き場にも浜辺にもいなくて。ホテルの周りもぐるっと回ってみたんだけど」

「他に、エレナさんが行ける場所は、ない……ですか」

「ありませんわね。もちろん森の中を除けば、ですけれど」

 二階堂さんの言葉を聞いて歌織さんが口を開く。

「すみませんが皆さんご協力いただけますか。二人一組でエレナちゃんを探しましょう。志保ちゃんと杏奈ちゃんはスタッフしか探せない場所を、野々原さんと百合子ちゃんはホテルの客室をお願いします。私と二階堂さんはホテルの周りを探します」

 歌織さんはテキパキと私たちに指示を出した。二階堂さんまで有無を言わせずに従わせてしまうのはさすが学校の先生といったところだ。私たちはペアになってすぐに動き出す。




39: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:26:32 ID:3iV

 まず三階の茜ちゃんたちの部屋に戻る。部屋の中にはスーツケースが二つ転がっているだけでエレナさんの姿はない。その後、使われていない客室を一つずつ確認したが、どの部屋にもエレナさんどころか、誰かが入った形跡すらなかった。
 二階に移動し、同じように客室を開けていく。しかし、三階と同様にエレナさんは見つからない。客室にはいないんじゃないかと思いつつも、茜ちゃんの表情を見るとそんなことは言い出せない。
こっちにはいないだろうとスタッフ以外立ち入り禁止となっている廊下に足を踏み入れた時だった。

「ユリッチ、あの部屋」

 茜ちゃんが指差す先、奥から何番目かの部屋のドアから光が漏れ、薄暗い廊下をぼんやりと照らしていた。茜ちゃんはホッとした表情を見せると小走りで部屋へと向かった。私も慌てて追いかける。

 スピードを落とすことなく茜ちゃんは部屋に飛び込んでいった。きっと中に入れば二人が元気に抱き合う姿が目に飛び込むのだろう。じゃれあう二人の声を期待しながら部屋へ足を踏み入れる。しかし、私の視界に入ったのは予想だにしなかったものだった。




40: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:27:12 ID:3iV

 フードを被った人物。

 顔には包帯のようなものがグルグルと巻き付けられていて表情どころか男性か女性かもわからない。
身長は高くないものの、背後の窓に入った蜘蛛の巣のような窓のひびと非現実的な顔面のせいで現実的な体躯であること自体が不気味さを一層際立たせている。『怪人』という言葉がしっくりくるほどに。




41: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:27:43 ID:3iV

 いや、それよりももっと驚くべきものがあった。

 包帯の怪人は白いシーツでくるまれた長いものを両腕で抱えているのだ。昨夜のうわさ話が脳裏をよぎると、途端に背中に冷たいものがツーッと落ちていった。シーツの端からだらりと伸びた緑色は私たちの探し人の髪、そのものだった。




42: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:28:03 ID:3iV

「エレナ……ちゃん」

 呆然と立ち尽くしていた茜ちゃんの口から声が漏れる。

「エレナちゃん!!」

 かすれた声で叫ぶと茜ちゃんが包帯の怪人に向かって駆け出そうとする。私はあわてて両肩を引っ張って茜ちゃんを引き留めると、そのまま部屋の外へ連れ出し、その勢いのまま客室のドアを思い切り閉めた。

「離してよ、百合子ちゃん!」

 私よりも小柄とは思えない力を出す茜ちゃんを必死に抑え込み、彼女の両肩を抱いて正面から呼びかける。

「私たちだけでは危険です。みんなを呼びましょう。急いでエレナさんを助けましょう」

 狼狽える茜ちゃんだったが、助けるという言葉に大きくうなずいてすぐに駆けだした。
 立入禁止の看板を越したときに茜ちゃんが急に止まって振り返った。




43: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:28:21 ID:3iV

「やっぱりダメだよ。このままじゃエレナちゃんが連れ去られちゃう。戻って今すぐ助けなきゃ」

 茜ちゃんはそう言って先程の部屋へ戻ろうとする。私はあわてて彼女の腕をとって大きく首を横に振った。

「私たちが戻ってもエレナさんを助けられません。大人を呼ぶのが先決です」

「でも、みんなを呼んでいる間に逃げたら」

「……私が見張ります」

 茜ちゃんの腕から力が抜けた。

「あの怪人が部屋から出てこないか私が見張ります。もし、出てきたり、窓を割る音が聞こえたら大声を出します。だから、茜ちゃんはみんなを呼んできてください」

 虚ろな目玉が怪人の部屋を見て、そして私を見た。

「任せてください。私は、名探偵です」




44: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:28:53 ID:3iV

 言葉以上に力強く茜ちゃんの肩をにぎる。茜ちゃんはうなずくと、階段に向かって走り出した。

 私は大きく息を吸って仁王立ちの姿勢をとり、ギュッと両手で握りこぶしを作って廊下をじっと睨みつけた。

 右手には何もない。左手にも何もない。せめてと思い、立札をぎゅっと握る。

 遠くから茜ちゃんの声が聞こえる。

 すぐに来てくれる。その気持ちをなけなしの勇気の支えにして床に足を突っ張った。

 ホールからドアが開く音が聞こえ、続いて階段を駆け上る音が近づいてきた。それでも、目の前の光景に変化はない。

「百合子ちゃん、大丈夫」

 茜ちゃんの声が耳に飛び込んでくる。私は視線をそらさずに首を縦に振った。




45: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:29:06 ID:3iV

「島原さんはどの部屋に」

「窓にひびが入った部屋だよ」

 続いた歌織さんの質問に私よりも早く茜ちゃんが答える。

「分かりました。それではわたくしと桜守様で部屋に向かいますので」

「茜ちゃんも行く。エレナちゃんを助けないと」

 歌織さんは顔をしかめるが、茜ちゃんは目を逸らさない。やがて歌織さんは観念したかのようにうなずいた。

 歌織さんと二階堂さんを先頭にして問題の部屋へと向かう。
 ふと、誰かが私の手をつかんできた。びっくりして振り返ると杏奈ちゃんだった。私は何も言わずにその手をぎゅっと握り返した。

 問題の部屋の前にたどり着く。
 歌織さんがそっとドアノブに手を伸ばした。その後ろでは二階堂さんが杖を構えている。歌織さんの視線に二階堂さんがうなずくと歌織さんは勢いよくドアを押し込んだ。

「エレナちゃんを放しなさい」




46: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:29:28 ID:3iV

 客室に放たれた歌織さんの声が廊下にいる私たちの耳へ飛び込んでくる。
 怪人が飛び出してくることに備えて身を固くする。しかし、誰かが飛び出してくるどころか、中からは物音一つ聞こえない。

 杏奈ちゃんと顔を見合わせていると当惑した表情の歌織さんが部屋から現れた。

「これってどういうこと」

 歌織さんに促されて部屋を覗く。
 そこには誰もおらず、ひび割れた窓ガラスの外で海鳥が優雅に空を飛んでいるだけだった。




47: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:31:29 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 暖炉の火がパチパチと音を立てている。
 私たちはラウンジのソファーに座り、黙りこくっていた。

 窓ガラスのひび割れた部屋からエレナさんが消えたあと、私たちは室内を念入りに探した。浴室やクローゼットはもちろん、ベッドの下まで探した。しかし、綺麗に掃除されたその部屋からはわずかな埃が見つかっただけで、エレナさんが消えた手掛かりになるようなものは見つからなかった。

 部屋にいないとなれば外に出たということになる。しかし、客室の入り口以外で外に出ることが出来る場所といえば窓しかなく、その窓も鍵がかかっている状態だった。つまり、この部屋から外には出られなかったはずなのだ。

 しかし、室内にいないのであれば外に出たとしか考えられない。歌織さんの指揮のもと私たちはホテルの周りを改めて探した。しかし、部屋の下の地面には足跡一つなく、周辺にも変わったところはなかった。

 こうなっては私たちの手には負えない。専門家の手を借りるしかない。そうなったのだが……。




48: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:31:59 ID:3iV

 ラウンジのドアが開き、杏奈ちゃんと志保ちゃんが部屋に戻ってきた。

「ダメです。通信機器は壊されています。ネットも電話も使えません」

「物理的に壊されてる。杏奈にも、直せない……です」

 朝、ゲームにログインできなかったのは設定のせいではなかった。肩を落とす二人に二階堂さんがありがとうとだけ言葉をかける。室内の重い空気をあざ笑うかのように暖炉からぱちりと火花の音がする。

「皆様、よろしいでしょうか」

 二階堂さんが立ち上がり、暖炉の前で皆をぐるりと見た。

「まずはこのホテルの主として謝罪いたします。お客様を危険な目に遭わせてしまい申し訳ございません」

 二階堂さんは頭を下げて落ち着いた声で話を続ける。




49: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:32:54 ID:3iV

「島原様がいなくなったのは、野々原様と百合子が見た包帯をつけた怪人に連れ去られたためということに間違いないでしょう。わたくしはこの島に来て数十年になります。
確かに怪人が出るという話は一度だけ聞いたことがありますが、実際に見たことはありません。この数十年で一度も、です。しかし、実際に島原さんが被害に遭われてしまった以上は無視できません」

 二階堂さんはここでいったん言葉を切るとまた口を開いた。

「残りの滞在期間、ホテルの外へ出ることをお控えください。また、ホテル内では極力一人にならないようお願いします。あと、野々原様と桜守様は一階の部屋にお移りください。わたくしたちと同じフロアにいたほうが何かと安心でしょう。手伝いは志保に申し付けてください」

「ちょっと待ってよ」

 当惑した声が二階堂さんの話を遮った。

「エレナちゃんは、どうするの? まだ見つかってないんだよ」

 ソファーから立ち上がり声を荒げる茜ちゃんをとりなすように歌織さんが茜ちゃんの肩を引っ張る。

「エレナちゃん、きっと怖い思いしているはずだよ。朝ごはんも食べてないし、早く探し出して助けてあげないと」

「野々原さん、落ち着いて。誰もエレナちゃんを探さないとは言ってないでしょ」




50: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:33:19 ID:3iV

 振り返るや否や茜ちゃんは両肩の手を振りほどき歌織さんに食って掛かる。

「歌織ちゃんは心配じゃないの。自分の生徒が危険な目に遭っているんだよ」

「だから心配しているの。あなたも、私の生徒なのよ」

 歌織さんは動じることなく茜ちゃんの肩に手を置き、そのままギュッと抱き寄せた。

「島原さんだけじゃなくて野々原さんまで怪人に攫われてしまったら先生はどうすればいいの」

 歌織さんの腕の中で口を開きかけた茜ちゃんだったが、そのまま何も言わずに歌織さんの背中をポンポンと叩いた。

「お話は済んだようですね。それでは時間も時間ですのでランチといたしましょう。皆様、空腹かと思いますので」

 二階堂さんがお昼ご飯の話をして初めて私はお腹が空いていることに気付いた。よくよく考えてみれば朝ご飯も食べずにエレナさんを探し続けていたのだ。

「ただ、朝食を温めなおしたものがメインとなることをお許しください」

 二階堂さんの謝罪に文句を言う人間は誰もいなかった。




51: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:33:55 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 読んでいた本を閉じ、ばたりとベッドに横たわる。天井に据え付けられた古めかしい電灯の光がまぶしい。右手で目に飛び込んでくる光を遮った。

「珍しいね。百合子さんが本を読むのを止める、なんて」

 化粧台に向かう杏奈ちゃんが話す。

「なんだか頭に入らなくて。せっかく旅行用のミステリィを持ってきたのにな」

 私は天井に向かって大きくため息をついた。

 昼食の片づけが終わると二階堂さんから晩御飯の準備まで部屋に戻ってよいと言われた。
 もともと午後は使っていない客室の清掃をやる予定だったが、この状況だからときっぱりと断られた。ホテルにお世話になって一日しか働いていないため、少しでも恩を返したいと食い下がったのだが、最後には二階堂さんにお願いされる形となってしまい、部屋にこもることにした。




52: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:34:10 ID:3iV

「杏奈も同じ。昨日、思いついたレシピが全然まとまらない」

 ペンが転がる音がした。上半身を起こして杏奈ちゃんに聞く。

「新しいレシピって、スイーツのってことだよね」

「……うん。エレナさんが、ブラジルのお菓子を、教えてくれた……から」

 杏奈ちゃんはボソリと呟くように答えた。
 二の句を継げないでいる私に杏奈ちゃんは身体を向けた。

「ねぇ、エレナさんは大丈夫だよね。百合子さんが見たときは……元気、だったんだよね」

 すがるような眼で見てくる杏奈ちゃんを直視できず視線をそらしてしまう。私が見たのは、怪人に抱きかかえられて緑の髪をだらりと下げた姿だけだ。

「ごめん、なさい。百合子さんのほうがショック、だよね。目の前で、エレナさんがさらわれるのを、見たん……だし」

 二人の間に沈黙が下りる。窓の外からは海鳥が楽しげに歌う声が聞こえてくる。




53: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:34:28 ID:3iV

 客室のドアがノックされた。
 私たちは身体をびくりと震わせてドアを見た。何も言わずにジッとドアを見つめているともう一度ノックの音がして、さらに声が続いた。茜ちゃんだ。

「すみません。まさか誰かが来るなんて思っていなかったので」

 部屋に招き入れて、さっきまで杏奈ちゃんが使っていたイスに座るよう勧める。

「こっちこそ急にごめんね。そうだよね、警戒するよね」

 茜ちゃんは苦笑いをすると、机の上のノートに目を止めた。

「これ……杏奈ちゃんのノート、だよね」

 杏奈ちゃんはおずおずとうなずく。

「杏奈のレシピノートです。でも……どうして、分かったの」

「そりゃそうだよ。だって、これ、エレナちゃんがよく作ってたもん。学校に持ってきて昼休みに食べさせてもらったんだ」




54: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:34:47 ID:3iV

「もしかして、誕生日プレゼント、としてですか」

「ううん、何でもない日。急に作りたくなったんだとか言ってね。クラスのみんなに配ってた。エレナちゃんってそうやってみんなを笑顔にしていっちゃう子だったんだ」

 茜ちゃんはそっとノートを撫でる。そして、その手をぎゅっと握った。

「茜ちゃんね、百合子ちゃんにお願いがあってきたんだ」

「お願い? 私に、ですか」
 
「そう、名探偵の百合子ちゃんにエレナちゃんを探してほしいの」

 想像していなかった言葉に私は目を丸くする。そんな私を茜ちゃんはまっすぐに見つめてきた。その表情にこれまでの笑顔はない。

「危ないことをお願いしているってのは分かってる。歌織ちゃんが言っていたことも分かってる。でも、このまま待つだけなんてできないよ」

「でも、エレナさんは外に連れ出されたんだよ、ね。百合子さんに、森の中を探してほしいってこと」

 杏奈ちゃんの質問に茜ちゃんは首を横に振った。

「歌織ちゃんにあそこまで言われてそんなことはできないよ。でも、ホテルの中に手掛かりがあるかもしれないでしょ。名探偵ならその手掛かりからどこにエレナちゃんが連れていかれたか分かるんじゃないかな」

 茜ちゃんがチラリとこちらを見た。




55: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:35:03 ID:3iV

 正直に言おう。それは無茶だ。

 エレナさんが連れ去られてからすぐにみんなで客室もホテルの外も探したが何も見つからなかった。もし、何かおかしなものを見つけてもそれがエレナさんの居場所につながるかどうかなんてわからない。いや、つながらないだろう。でも……。

 杏奈ちゃんが私もジッと見ている。考えていることは同じだろう。

「私にできるかどうかは分からないけど」

 茜ちゃんがパッと顔を輝かせた。
 気休めでもいい。私は茜ちゃんの元気を作る手伝いをしたかった。




56: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:36:03 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ドアノブにそっと力を込めて押すとドアは何の抵抗もなく開いた。

「誰も、いないよね」

 もともと誰も使っていない部屋なのだから当然と言えば当然なのだが、今朝の出来事があっただけに少し慎重になってしまった。

「それで、この部屋で何をする……の」

「とりあえず、ほかの部屋と違うところを探したいかな」

「違うところ、ねぇ」

 茜ちゃんが部屋の中をきょろきょろと見まわす。
 部屋の作りはどの部屋とも一緒。ベッドが動いた形跡はないし、壁に隠し扉があるようには思えない。念のために冷蔵庫も開けてみる。

「百合子さん、お腹が空いたの?」

「いや、隠し部屋のスイッチがあったりしないかなと思って」

 私の顔に杏奈ちゃんの冷ややかな視線が刺さる。




57: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:36:19 ID:3iV


「つまり、ユリッチはこの部屋からどうやって外に出たかが気になるってこと?」

 いつの間にか茜さんの私の呼び方が戻っている。少しだけホッとして、わたしは茜さんの助け舟に乗る。

「入り口は私がずっと見張っていたわけですから。怪人がどこに行ったかを探すにはどこから外に出たかを考えるかから始めるのが一番だと思うんです」

「それだったら窓から出るのが一番だけど」

「あの時、窓の鍵は、閉まっていたんだ……よね」

 杏奈ちゃんが窓をちらりと見る。風を受けていないレースのカーテンは外からの光を受けて室内に影を落としている。

「だから、この部屋に抜け道がないか探そうと思ったの。でも、ほかの部屋と違った点はないね。あれ以外、だけど」

 私は両手でカーテンを開けた。




58: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:36:34 ID:3iV

 窓ガラスに入った大きなヒビ。窓の向こうの青い空を台無しにするかのように四方八方に黒い手足を伸ばしている。怪人に出くわしたときまるでクモの巣を背負っているように見えて気味が悪かったことをよく覚えている。

「たぶんだけど、力いっぱい窓を閉めたら割れちゃうよね」

「そうですね。窓から外に出るトリックを使ったとしても力任せに閉めるような方法は使えそうにないです」

 密室を作る定番と言えば長い紐の先に輪っかを作って鍵を閉める手法だ。しかし、ひびに交じって奇妙な穴が開いているわけでもないし、窓ガラスと枠の間に隙間ができているわけでもない。もちろん窓の近くに奇妙な落とし物なんて見当たらない。

「入り口も違う、窓も違う。ということは、天井か床……?」

 杏奈ちゃんの言葉につられて床に目をやる。




59: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:37:06 ID:3iV

 ベッドを移動した形跡はないし、かかとで床を叩いても空洞が空いているような音はしない。天井を見てみてもあるのはしっかりと取り付けられた蛍光灯だけ。
念のためカバーを外して天井にはめられている部分を取り外そうとしたが、びくともしない。それに無事にとれたとしても出来た隙間に入るのはせいぜい頭までだ。肩から下は通りそうにない。

「これが本当の八方ふさがりってやつだね」

 茜ちゃんは大げさに手を上げてベッドに倒れこんだ。

「怪人は人間じゃないなくて幽霊とかなのかな。そうすれば壁をすり抜けられそうだし」

「そういえば顔は包帯でグルグル巻きだったんだよ……ね。それは幽霊っぽい、かも」

「それじゃあ、エレナちゃんがどこに連れていかれたかなんて……」

 茜ちゃんは腕で両目を覆い、大きくため息をついた。

「諦めるのはまだ早いですよ、茜ちゃん」

「……うん、そうだよね。消えたとしてもエレナちゃんが無事な可能性だってあるわけだし」

「そのとおりです。それに、怪人は幽霊ではありません」




60: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)20:37:23 ID:3iV

 私がきっぱりと答えると、目の前の二人は目を丸くして驚いた。

「それって、ユリッチはどうやって怪人が消えたか分かったってこと」

「いえ、それは分かりません。ただ、怪人が壁をすり抜けたわけじゃないということは自信があります。だって、エレナさんは人間ですから」

「そっか。怪人が、壁をすり抜けたとしても……エレナさんは、壁をすり抜け……られない」

 私は大きくうなずく。

「何か方法があるはずなの。この密室からエレナさんを連れ出す方法が」

 顎に手を当ててひびの入った窓をにらむと、視界の端にいた杏奈ちゃんの顔がフッと緩んだ気がした。

「どうかしたの、杏奈ちゃん」

「ん……、百合子さんはやっぱりすごいな、と思っただけ。名探偵が一緒にいてくれて、良かった」

「そうだね。茜ちゃんもユリッチがいてくれて助かったよ」

 二人のまっすぐな誉め言葉に心がこそばゆくなってしまう。咳ばらいで照れを隠そうと息を吸い込んだら、空気の入りどころが悪かったのかむせてしまった。

「それで、次はどうするの」

 私は呼吸を整え、改めて咳ばらいをして答えた。

「外に行こう。この部屋の真下をもう一度見てみたいの」




62: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:07:41 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 顔を上げて窓にひびが入っている部屋を探すと、すぐに問題の部屋は見つかった。ほかの部屋の窓が綺麗なだけに異様な雰囲気すら感じさせる。

 部屋の真下に行き、まずは足元の地面を確認する。
 草が踏まれた跡があるが、強く集中的に踏まれたものではない。きっと今朝の事件の後にエレナさんを探すときについたものだろう。

 次に窓の向かい側にある森を確認する。
 部屋から一番近い木までは普通に歩いて五歩ぐらいある。運動神経のいい人であれば走り幅跳びの要領で行けるのかもしれない。念のため、茜ちゃんに意見を聞いてみる。

「うーん、難しいと思うな。走り幅跳びだけなら運動神経抜群の茜ちゃんならできると思うけど、さすがに人を担いだままはなぁ」

 真下に降りたわけでもなく、横に飛んで木に飛び移ったわけでもないとなれば残るは一つである。




63: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:08:15 ID:3iV


「屋根の、うえ」

 杏奈ちゃんのつぶやきに私は小さくうなずいて、頭上を見る。
 三階建ての一番上には庇がちょこんと飛び出している。その先には雨どいがついており、問題の部屋の窓のすぐ隣を伝って梯子のように地面まで伸びている。

「この雨どいを伝っていけば上にも登れるんじゃないかな」

 そう言って茜ちゃんは雨どいに手をかけようとしたとき、背後から厳しい声が飛んできた。振り向かなくとも誰の声かわかる。

「お客様とはいえ、ホテルを壊すのはどうかと思いますが」

「壊すだなんて心外な。茜ちゃんはただ実験をね」

 怪訝そうな顔で見る志保ちゃんに私が考えたことを説明する。

「屋根の上に逃げたんじゃないかというのは分かりました。しかし、やはりエレナさんを担いで登るのは無理があるのでは」

 志保ちゃんの意見に反論できる人はいなかった。
 結局は怪人とエレナさんが一緒にいる以上、アクロバティックな手段で部屋の外へ出ることは難しいのだ。かといって、入り口は私がずっと見張っていたのだから廊下へは出ることが出来ない。




64: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:08:31 ID:3iV

 可能性を探れば探るほど密室が完璧になっていく。
 私の知っている名探偵たちはいつだって事件を解決してきた。でも、実際に密室を目の前にすると、覆すのは無理に思えてくる。せめてエレナさんを連れ去ってさえいなければ。

「……そういえば、どうしてエレナさんが攫われたんだろう」

「それは……エレナちゃんが一人でいたからじゃないかな?」

「それじゃあどうしてエレナさんは一人だったんでしょう。というか、何をやっていたんでしょうか。使われていない客室に行く理由なんてありますか」

 さらに私が質問を重ねると茜ちゃんはうーんと唸ってしまった。

「誰かに、呼び出された、とか」

「それならエレナちゃんがあの部屋にいたことにも説明がつくね。でも、エレナちゃんが一人で行くかな」

「それじゃあ、おびき出されたんじゃないですか」

 志保ちゃんが口を開く。




65: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:08:48 ID:3iV

「今日は皆さんで宝探しをやる予定でしたよね。そのヒントになりそうなものを使ってあの部屋におびき寄せた」

「確かに。それだったら茜ちゃんを呼びに行く前に確認しようと思って一人で行っちゃうかも。すごいよ、しほりん」

 茜ちゃんは手放しに誉めるが志保ちゃんはにべもないといった顔を見せる。

「でも、それが分かって何になるんですか。あの部屋から出る方法が分かるとは到底思えませんけど」

「手掛かりの一つにはなるかな。だって、怪人がエレナさんをあの部屋に連れてきたことに意味があるってことになるんだから。もしかしたら隠し通路があるのかもしれない」

 志保ちゃんが呆れた顔をするが私は構わず口を開く。

「志保ちゃん、このホテルの見取り図が見たいんだけど見せてもらえないかな。出来ればこのホテルができた頃のやつ」

「奥様に頼めば持ち出せると思います。でも」

「分かってる。そろそろディナーの準備の時間だよね」

 私はクルリと振り返る。

「続きはディナーのあとにしよう。私と杏奈ちゃんの部屋に集合ね」




66: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:10:12 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「どうですか、隠し通路はありそうですか」

 ベッドに広げた見取り図を覗き込む私たちに志保ちゃんが声をかける。

「なさそう、かなぁ」

「杏奈も、見つけられない……です」

 ぐっと背伸びをして二人同時に大きくため息をつく。
 問題の部屋がある二階だけでなく屋上を含めたすべての見取り図を確認したが、それらしい記録はなかった。せめて屋上にロープをかけられそうな場所がないかと思ったが、避雷針や煙突は問題の部屋からは遠く、近くには使えそうな突起物は見当たらない。

 見取り図をたたみ、ベッドに腰掛ける。時計を見ると九時になろうというところだった。




67: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:13:13 ID:3iV

「茜ちゃん、まだ歌織さんを手伝っているのかな」

 ディナーの後に集まる約束をしていたが、歌織さんの資料探しを手伝うから遅れると話があった。こんな時でも資料探しを続けるんだと思ったが、茜ちゃんから切り出したことらしい。

「気を紛らわせるための資料探しですから。念入りに時間をとっているのかもしれません」

 志保ちゃんはそう言うと、遠い目をした。
 ディナーに顔を出した歌織さんを見たときはギョッとした。身なりこそ綺麗に正していたが、目の周りは腫れぼったい。姿を見なかった午後の時間、ずっとふさぎ込んでいたことが手に取るように分かった。

「それで、どうする。茜ちゃんが来るまで……待つの」

「先にやっていていいよって言われたわけだし、出来ることは私たちだけでやっちゃおう」

「できることって言っても何をやるんですか。隠し通路どころか屋根に上る方法もなかったわけですよね」

 志保ちゃんの話はもっともだ。今の状態では怪人が消えた方法の手掛かりは全くない。それなら別方向から攻めるしかない。

「動機から考えよう。なんで怪人はエレナさんをターゲットにしたのか」




68: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:14:41 ID:3iV


「動機って、エレナさんはたまたま一人でいたから狙われたんじゃないんですか」

「ちょっと言い方がおかしかったね。正確に言うと茜ちゃんや歌織さん、それに私と杏奈ちゃんもターゲットに含まれるよ」

 杏奈ちゃんが肩をびくりと震わせる。脅かしてごめんねと杏奈ちゃんに謝ってから、私は話を続ける。

「エレナさんがたまたま狙われたのなら私たちがこの島に来る前に志保ちゃんや二階堂さん、あと普段はいるスタッフの人が狙われていてもおかしくないでしょ。
でも、そんな話は一度しか聞いたことがないって二階堂さんは言っていた。それって普段はこのホテルにいない私たちが狙われているってことだと思うの」

「でも、どうして百合子さんたちを。船を間違えたからたまたまこの島に来ただけなんですよね」

 志保ちゃんの言うとおりなのだが、改めて自分の失敗を言われると恥ずかしくなる。これについては私もまだ答えが出ていなかった。島外の人間であれば今までの宿泊客も該当する。エレナさんの綺麗な髪色が気に入ったからという理由も考えられるけど……。

「宝探しをしにきたから、かな」




69: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:15:05 ID:3iV

 杏奈ちゃんがボソリと答える。

「もちろん杏奈たちは違うけど。でも、エレナさんはこの島に宝探しに来たんでしょ。怪人からすれば杏奈たちもエレナさんたちも一緒、かな」

「そっか、それなら志保ちゃんたちが今まで襲われなかったことも分かるかも。ねぇ、志保ちゃん、前に襲われた人が何のためにこの島に来たか知ってる?」

 志保ちゃんは首を横に振る。

「ごめんなさい。私はその時まだ小さかったから……」

「そのあたりは二階堂さんに聞いてみるしかないね。でも、そんな小さいころから志保ちゃんはこの島に住んでいたんだね。って、それもそうか。お母さんがこのホテルを取り仕切っているんだもんね」

 私が何の気なしに言うと志保ちゃんはギュッと両腕を抑えた。

「ごめん、何か気に障ること言っちゃったかな」

「なんでもありません。ただ、杏奈が言うエレナさんが襲われたのは宝探しをしに来たからというのはたぶん違うと思います。この島にくるお客様はあのわらべ歌に興味を持ってくる方が少なくないですから」

「わらべ歌っていうと、ラウンジに飾ってあった……あれのこと。こがねいろが、とか書いてあった」

 志保ちゃんが小さくうなずく。




70: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:15:29 ID:3iV

「昨晩、歌織さんがおっしゃっていたような解釈をする方は多いようです。以前、被害に遭った二人もわらべ歌の秘密が分かったということで島の奥に向かったそうですから。
奥様もまさかあんなことになるとは思わなかったそうで、今でも引き留めておけばよかったと後悔していらっしゃいます」

 昨晩の二階堂さんを思い出す。突如見せた憮然とした態度はお客様が心配からだったのかもしれない。

「それじゃあ、エレナさんもわらべ歌の秘密に気付いたの、かな」

 室内に失礼な沈黙が下りる。三人で苦笑いをしているとドアがノックされた。




71: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:15:54 ID:3iV

「いやぁ、ごめんね、遅れちゃって」

 悪びれる様子もなく茜ちゃんが部屋に入ってくる。私は化粧台の椅子を差し出して、ここまでの経過を伝え、念のためエレナさんがわらべ歌の秘密に気付いていたか聞いてみる。

「エレナちゃんって直感は鋭いけど、わらべ歌の秘密に気付いたかって言われると、どうかな」

 茜ちゃんは腕を組んで椅子に腰かけた。

「どちらかといえば歌織ちゃんじゃないかな。さっきも資料室で何かに気付いたみたいだし」

「それっていったい」

 相槌を打つように茜ちゃんに質問を投げかける。しかし、茜ちゃんが答えることはなかった。そして、私がそれを気にすることも。

 室内にいる全員は突如聞こえてきた金切り声に全神経を持っていかれてしまっていた。




72: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:29:32 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 私が口を開く前に一つの影がドアに向かって走っていった。

「茜ちゃん、待って。一人じゃ危ないから」

 閉まるドアを開けなおし、先を行く茜ちゃんの背中を三人で追いかける。

 ホールにたどり着くと反対側の棟から走ってきた二階堂さんと鉢合わせた。ゆったりめのガウンを羽織り、眼鏡をかけているのは就寝の準備を終えていたからだろうか。

「今の声は桜守様ですね。何があったのですか」

 二階堂さんの問いに志保ちゃんは大きく首を横に振る。
 茜ちゃんはホールの中央に立ち、周囲をぐるりと見まわしながら歌織さんの名前を叫んでいる。しかし、どこからも反応はなく、ただ声がホールに響くばかりだった。




73: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:29:45 ID:3iV


 部屋で聞いた叫び声は確かにホールのほうから聞こえた。二階堂さんが私たちと反対側の棟から出てきたということは声の主である歌織さんはこのホールからどこかへ移動したか隠れているということになる。
 
 私は正面玄関のドアを引っ張ってみた。カギはかかったままだ。

「二階でしょうか。手分けして探しますか」

「いえ、今朝のことがあります。分かれずに全員で探しましょう」

「ちょっとまって、あそこ」

 茜ちゃんが声を上げて大階段のわきを指差す。

「ドアが開いてる」




74: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:30:01 ID:3iV


 中庭へと続くガラスドアのレースのカーテンが茜ちゃんの声に呼応するように揺れている。
 私たちは無言でうなずきあうとゆっくりとドアに近づいた。

 二階堂さんが先頭に立ち、中庭へと足を踏み入れる。

 今夜は満月だった。上がり切っていない月からの光が中庭に建物の影を長く伸ばしている。

 その影の先、煙突が作った長方形の闇の奥に実態を持った影がぬぅっと立っている。影は腰のあたりに長いものを抱えている。その姿はまるで墓に建てられた十字架のようだった。




75: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:30:16 ID:3iV

「桜守様……ですか」

 二階堂さんが声をかけるが、彼女の心からの質問ではないことはすぐに分かった。そうであってほしいという願いがこもった問いかけ。

 十字架の影がゆっくりと動く。影が細長い棒となり、また十字架となったとき、鈍い光が中庭に現れた。

 杏奈ちゃんが息をのむ音が私の耳に届く。

 包帯の怪人。
 その両腕に抱えるのはエレナさんの時と同じシーツにくるまれた細長い物体。ただ違うのはシーツの端から見えるのがライトグリーンの髪ではなく茶色く長い髪ということ。




76: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:30:33 ID:3iV


「歌織ちゃん!」

 私の隣をオレンジ色が走り抜ける。
 包帯の怪人はサッと踵を返すと森の中へ消えていった。追いかける茜ちゃんは走るスピードを緩めずに森へ向かっていく。

「待ちなさい」

 二階堂さんが声を上げるが茜ちゃんは止まらない。

「待ちなさい!」

 二度目の制止の声が中庭に響く。しかし、効果はなく茜ちゃんはそのまま森の中へ消えてしまった。

「野々原様はわたくしが追いかけます。あなたたちは屋敷の中で待機していなさい」

 二階堂さんが一息に捲し立てる。

「いえ、私も手伝います。茜ちゃんを放ってはおけません」

「ダメです。森にくわしくない人間が夜に入り込むのはわたくしが許しません。それに百合子には杏奈と一緒にお願いしたいことがあります」

 二階堂さんは私の後ろのほうへ視線を向ける。




77: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:30:46 ID:3iV

「志保をお願いします。温かいミルクを出して落ち着かせてください」

 振り向くと、志保ちゃんは両腕を抱えてしゃがみ込んでいた。杏奈ちゃんが必死に背中をさすってるが、顔を伏せたまま肩を震わせている。
 
「頼みましたよ」

 そう言うと二階堂さんは森の中へと走っていった。




78: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:31:28 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 茜ちゃんと二階堂さんが戻ってきたのは、それから一時間後だった。
 肩を抱えられた茜ちゃんは泥と葉っぱにまみれていて、白い足には赤い線がいくつも刻まれていた。

 声をかけようとしたが二階堂さんにやんわりと止められた。代わりに茜ちゃんの部屋から荷物を持ってくるよう頼まれた。今日は二階堂さんの部屋に寝かせるそうだ。

 マスターキーを預かって杏奈ちゃんと一緒に茜ちゃんたちの部屋に入る。
 電気をつけて部屋をぐるりと見渡すと奥の観葉植物の隣に三組のキャリーバッグが並んでいるのを見つけた。シックな紺色と派手なオレンジ色、そしてさわやかなライトグリーン。
茜ちゃんのものはきっとオレンジ色だろう。ほかに荷物は見当たらないので、キャリーバッグだけ持っていこうとしたとき、杏奈ちゃんがジッとベッドを見ていることに気付いた。




79: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:31:43 ID:3iV

「どうかしたの? ベッドに何か落ちてた」

「ううん、そうじゃなくて。杏奈、今日は志保と寝ようかな、と思って」

 杏奈ちゃんは綺麗にメイキングされたベッドのシーツを撫でた。

「今は静かに寝てるけど、起きたらまた同じことになるかもしれないから」

「同じこと、ね」

 二階堂さんが茜ちゃんを追いかけた後、私と杏奈ちゃんで志保ちゃんを部屋まで連れて行った。杏奈ちゃんの服をぎゅっと握ったままの志保ちゃんだったが、ホットミルクを口にするとようやく落ち着いたのか私たちに深く頭を下げてベッドに潜っていった。

「普通の様子じゃなかったもんね。お仕事しているときのキリッとした感じがなくて。なんていうか、子供みたいだった」

 杏奈ちゃんが小さくうなずく。




80: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:32:00 ID:3iV


「たぶん、あの怪人のせい。きっと志保のお父さんとお母さんが怪人に」

「ちょっと待って。志保ちゃんのお母さんは二階堂さんじゃないの」

「違うと思う。志保の部屋に小さいころの写真が飾られてたよ。お父さんとお母さんっぽい人に手をつないでもらってる小さな志保が写ってた」

「じゃあ、志保ちゃんがここで働いているのってもしかして」

 少し前に私たちの部屋で怪人について話す志保ちゃんの顔を思い出す。平静を装っていただけで心の中では何を考えていたのだろう。




81: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:32:16 ID:3iV


「杏奈はお菓子作りしかできないから、エレナさんたちを見つけることはできない。お昼も一緒についていったけど、全然役に立てなかった。」

 私は口を挟む前に杏奈ちゃんが顔を上げる。

「でも、志保の力にはなれる。このホテルの中では杏奈が一番志保と仲良しだから。志保のことは杏奈に任せて、百合子さんはエレナさんと歌織さんを見つけてください」

 杏奈ちゃんが私の両目をしっかりと捉える。こんな目で見られて断れる人間なんているだろうか。

「分かったよ。志保ちゃんのことはお願いね。でも、一言だけ言わせて」

 私は杏奈ちゃんの両手をぎゅっと握る。

「お菓子だけ、だなんて言わないで。私は隣に杏奈ちゃんがいてくれてすごく助かったんだよ。それに私は杏奈ちゃんのお菓子のおかげでこの島で元気にやっていけているんだから。志保ちゃんだって、茜ちゃんだって同じだよ」

 杏奈ちゃんは少し面食らった顔をして頬を赤くした。




82: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:32:25 ID:3iV


「それじゃあ二階堂さんのところに早く荷物を持って行こう。志保ちゃんが起きてしまうかもしれないし、私たちの荷物も取りにいかないといけないしね」

「うん! え、わたし……たち?」

「だって、一緒に寝るのは二人でもいいでしょ。それに……」

「それに?」

「……私だって一人で寝るのは怖いもん」

 私がぼそりと呟くと、杏奈ちゃんは目を丸くして、そしてくすりと笑った。




83: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:36:27 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 翌朝、私たちは少しだけ寝坊した。

 急いで身支度を済ませ、三人で来賓室へ向かうとドアの向こうから心の安らぐ香りが漂ってきた。不思議に思いながらそっとドアを開けると既にテーブルの上には湯気の立つ食器が並んでいた。

「三人とも少しは眠れましたか」

 振り向くと割烹着姿にお盆を携えた二階堂さんが優しく微笑んでいる。長い髪を縛り上げて三角巾に収めている姿は驚くほど似合っている。これまでのドレス姿からは想像できない純和風の雰囲気にしばし言葉を失ってしまった。




84: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:36:42 ID:3iV


「申し訳ございません。残りの準備にすぐに取り掛かりますので」

「いいのです。色々あって疲れたでしょう。今日はゆっくり休みなさい。百合子、杏奈も同じです」

 しかし、と志保ちゃんは食い下がろうとしたが二階堂さんは笑みを崩さない。気圧されたのか志保ちゃんは小さく返事をして引き下がった。

 席について箸を持ち、お盆の上を見る。味噌汁に焼き魚、豆腐に漬物という典型的な和食のコースだった。来賓室の雰囲気にも今の格好にも全くそぐわないなと初めは考えていたが、ひとたび箸をつけたらそんなことを気にする隙もなく箸を動かしていた。




85: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:36:58 ID:3iV


「茜ちゃんは……大丈夫、ですか」

 お椀から口を離した杏奈ちゃんが質問する。

「まだ眠っています。さすがに疲れたのでしょう。朝食はあとでわたくしが持っていきます。おにぎりであればいつでも食べられますから」

 急須で緑茶を注ぎながら二階堂さんが答えた。

「あの、茜ちゃんだけ戻ってきたということは、歌織さんは見つからなかったということでいいんですよね」

「ええ。森に入ってしばらくしたらうずくまる野々原様を見つけましたから。暗い中で勝手を知らない森に入ったのです。木の根に足を取られたのでしょう。それがどうかしたのですか」

「いなくなった二人の手掛かりだけでも見つかっていればと思ったので」

 私の前に湯飲みを差し出そうとした二階堂さんの手がピタリと止まる。




86: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:37:16 ID:3iV


「森に入ることは禁じます。昼ならば良いというわけではありません」

「分かっています。私も森で迷わない自信がないですし。ただ、少しでもいいから手掛かりが欲しくて」

「手掛かりを見つけてどうするのですか。怪人は森の奥に消えました。わたくしたちにできることは無暗に歩き回らず身を守ることではないですか」

「だからこそ手掛かりが必要なんです」

 厳しい視線を投げつけ続ける二階堂さんの目を正面から受け止める。




87: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:37:27 ID:3iV


「どうやってエレナさんが連れ去られたのか、なぜ歌織さんまで連れ去られたのか。分からないことが多すぎます。このままでは被害者が増えるだけです。私たちは犯行の手口を知る必要があるんです」

 私は一息に捲し立てた。二階堂さんは私の目を見たままずっと話を聞いていたが、フッと目を伏せて笑みを見せたかと思えば、私の前に湯飲みを移動させた。

「百合子の言うとおりですわね。分からないことが多すぎるのはよくありません」

 二階堂さんは急須を置き、椅子に座ると、机の上で手を組んだ。

「手掛かりになるか分かりませんが、資料室を覗いてみてはどうですか。昨晩、桜守様と野々原様はあそこに籠っていたのでしょう。あとで案内して差し上げます」

「奥様、それでしたら私が」

 志保ちゃんが声を上げるが、またしても二階堂さんの笑顔に封殺されてしまう。

「ありがとうございます。心配してもらっているのにわがままを言ってすみません」

「構いません。わたくしもこれ以上の被害者を出したくありませんから。ですが」

 二階堂さんは私の手元をちらりと見た。

「朝食はしっかり食べてくださいまし。美味しいうちに食べてもらったほうが作った身としては嬉しいですので」




88: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:39:17 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 資料室のドアを開けると馴染み深い匂いが私を迎えてくれた。
 室内にはスチールの書架が四列並んでおり、どの棚にも本がびっしりと詰められている。入り口の隣には小さな書見台もある。二階堂さんは資料室と呼んでいたが、図書室という名のほうがふさわしく感じた。

「わたくしはここにいますので終わりましたら声をかけてくださいまし」
 
「てっきり戻られるのかと」

「状況が状況です。一人きりになるのは避けたほうがよろしいでしょう」

 そう言って二階堂さんは書見台の椅子を引くと持ってきたハードカバーの本を開いた。




89: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:39:31 ID:3iV


 ひとまず島の歴史を記した本を探すことにした。初日の夜、歌織さんはこの島の歴史を調べるためこの島を訪れたと言っていた覚えがある。書架の奥へと進み、本の頭に積もった埃を息で払ってページをめくる。

 目次を参考に目ぼしいところを摘まみ読みして本を棚に戻し、気になることのメモを取って、また別の本を取り出す。手帳を閉じて四冊目を書架に戻したとき、隣に二階堂さんが立っていることに気付いた。

「時間がかかっているようでしたので」

 腕時計を確認すると探し始めてから三十分以上経っていた。

「目星を付けていたわけではないのですか」

「いえ、そういうわけじゃ。ちゃんとこの島の歴史も分かりましたし」

 手に持った手帳を開き直し、書いたばかりのメモに目を通した。




90: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:40:08 ID:3iV


「昔、この島には集落があって、このホテルが立っている場所を中心として栄えていたみたいですね。そして、島の半分から港のほうが使用されていて、残り半分は未開発だった。
このホテルは集落が島を渡った後にできたんですね。出来た経緯が面白いです。無人島にしないことでこの島に生きていた人がいた痕跡を残したい」

「大きな賭けだったと先代から聞いています。観光客は集落があったころから多かったようでしたが、事業として成功したのは時勢に乗れたおかげだと言っていました」

「二階堂さんは、この島の出身なんですか」

 二階堂さんは首を横に振って書架からこの島の歴史が書かれた本を抜き出した。

「ここでの暮らしは高校を出て住み込みで働くようになってからです。島の歴史については先代である祖父がよく話してくれました。ここに置いてある本に書かれていることもそうでないことも」

 目を細めて本の表紙を撫でる二階堂さんの口元には笑みが浮かんでいた。




91: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:40:49 ID:3iV


「それでは教えてほしいことがあるんですけど、ラウンジに飾ってあるわらべ歌について書かれた本はありませんか」

「ありませんわ」

 二階堂さんは間髪入れずに答えた。

「このホテルをわたくしが切り盛りするようになってから同じことを先代に聞いたことがありました。あのわらべ歌は何なのか、どういう意味なのか。
ラウンジで暖をとっていた先代はわたくしの顔をちらりと見ると、暖炉に向き直りそっと目を瞑りました。そして小さくも力強い声でこう答えました。触れてはならないものがある、と」

 禁忌の言葉が持つザラリとした響き。私はゴクリとつばを飲み込んだ。

「ここの管理を任されている以上、わたくしにはホテルを盛り立てる義務があります。そのためには目玉となるものが必要と考えました。先代はわたくしがこのわらべ歌を利用しようとしていたことに気付いたのでしょう。
わたくしはこれ以上追及しても良いことはないと思い、その場は退きました」

 二階堂さんは遠い目をした。

「それから数年後に先代が亡くなり、わたくしはすぐに島の再開発のために調査を依頼しました。表向きには新しい魅力を見つけるためと言いましたが、きっとわらべ歌のことが心のどこかで諦めきれなかったのでしょう。
昔からホテルで働く者は反対しましたが、強引に押し切りました。念には念を入れて調査中はホテルを休業し、スタッフにも休みを与えました」

「それじゃあ、調査でわらべ歌の秘密が分かったんですね」

 二階堂さんは私をちらりとも見ずに話を続ける。




92: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:41:26 ID:3iV


「やってきたのは五名の調査員でした。ホテルの未来への投資ですから都会の大きな会社を選びたかったのですが、近くの市の小さな調査会社に頼むので精一杯でした。
やってきた所長さんは、チームワークならどこにも負けませんから安心して任せてくださいとタヌキのような腹をポンと叩いて笑いました。そして、調査が始まって三日後、二人の調査員が亡くなりました」

 資料室の奥の窓がガタリと音を立てて揺れた。

「今日は風が強いですね。あの時は風のない穏やかな日でしたが」

「あの、その二人って」

「ええ、島原さんが消えた日にお話した怪人が出るという噂の事件です。調査から戻らない二人を探しに出かけたら島の反対側の洞窟に倒れている状態で発見されました」

「シーツでぐるぐる巻きにされていたわけですね」

「シーツ? そのような不可思議な状態ではなかったと聞いています。ただ、どうしてそんなところにいたのかは分かりません。いなくなる前日の晩に二人が熱心にわらべ歌の書かれた額を熱心に見ていたことを覚えています」

「その人たちが発見された洞窟の場所は分からないんですか」

 二階堂さんは申し訳なさそうに首を振る。

「捜査には混ぜてもらえませんでしたから。でも、そうですね。島原様も桜守様もそこに連れていかれた可能性があります。警察の方が来たらそう伝えましょう」

 私は大きくうなずいて、二階堂さんの言葉を手帳に記した。




93: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:41:41 ID:3iV


 わらべ歌の秘密は分からなかったが、噂の裏付けを取ることが出来た。手帳を閉じて御礼を述べようと顔を上げるとじっと私の顔を見る二階堂さんと目が合った。

「あの、どうかしましたか」

「いえ、百合子も杏奈もその歳で自分の役割を見つけているのだと思うと嬉しくなりまして」

 そう言うと二階堂さんは持っていた本を書架に戻した。

「わたくしは全ての人にはこの世界で担うべき役割があると考えています。桜守様が若人を導く教師であったり、わたくしがこのホテルのオーナーであったり。百合子の探偵や杏奈のパティシエールはきっと二人が担うべき世界の役割なのでしょう」

「私の探偵は、その趣味みたいなもので。皆さんのようなしっかりしたものじゃ」

「趣味でもいいのです。役割が必ずしも職業とは限りません。その役割で世界の役に立てればいいのですから。志保にも、そのような何かを見つけてもらえればいいのですが」

「志保ちゃん、ですか。今でも立派に働いているのに」

 二階堂さんは首を横に振ると、眉を下げて口を開いた。




94: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:42:44 ID:3iV


「人生の流れで思い通りでなくとも自らの役割を見つけることもあるでしょう。しかし、志保は違います。志保はわたくしへの恩返しのためにここにいるのですから」

 恩返しとはどういうことだろう。その意味を聞こうと口を開いた時、資料室のドアが音を立てて開いた。

「奥様! エントランスへ、エントランスへ来てください」

「どうしたのですか、騒々しい。百合子の前とはいえそのような態度は」

「申し訳ございません。しかし、お許しください。急いでいただきたいのです」

 胸に手をあてて一生懸命に息を整えながら志保ちゃんは話を続けた。

「島原様と桜守様が、お戻りになったのです」




95: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:43:13 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 エントランスへ駆け込むと、フロント前のソファーに座る二人が見えた。見覚えのある緑色の長い髪と茶色い編み込み。私たちの足音に振り向いた歌織さんは笑顔を作ってゆっくりと立ち上がろうとした。

「座ったままでいてくださいまし。ご無事なようで何よりです」

 手で制する二階堂さんが心底安心した声をだす。歌織さんは弱々しく首を横に振ったが、浮かした腰をもう一度ソファーへ沈めた。

「こちらこそ、ご心配をおかけしました。それで野々原さんは」

「杏奈が呼びに行っています。そろそろ着くはずでしょう。今、志保に温かいものを準備させています。しばらくお待ちください」

 二階堂さんがそう言い切らないぐらいのタイミングで東棟から駆けてくる足音が聞こえてきた。




96: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:43:24 ID:3iV


「エレナちゃん……歌織ちゃん……」

 茜ちゃんが絞り出すような声で二人の名前を呼ぶ。ぐったりとして座っていたエレナさんが顔の前で手を振った。

「エレナちゃん! 歌織ちゃん!」

 シャンデリアが揺れるぐらいの大きさの声を響かせて茜ちゃんは二人が座るソファーに飛び込んだ。

「良かった、です。本当に……良かった」

 遅れて戻ってきた杏奈ちゃんが目を赤くして呟く。茜ちゃんは歌織さんとエレナさんに頭を撫でられている。これではどっちが連れ去られたのか分からない。




97: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:43:44 ID:3iV


「でも、どうやって戻ってきたの。怪人に捕まっていたんでしょ」

 涙を拭ってもらいながら茜ちゃんが質問する。

「エヘヘ、カオリがね、頑張ってくれたノ」

「頑張ったなんて、そんな。たまたま怪人がいなかったから逃げ出せただけ。このホテルへの道も一生懸命走っていたら運良く辿り着けただけだもの」

「ホント、運が良いにも程がありますわ。あの森の構造も知らずに戻ってこられるなんて」

 二階堂さんが歌織さんの脚に目を向けた。土汚れに交じって赤い線が向こう脛に入っている。履いている白いサンダルに汚れが目立たないことを考えると、森の中では脱いで走ってきたのだろう。




98: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:44:00 ID:3iV


 志保ちゃんが二人分のホットミルクを持ってきた。ゆっくりと立ち上がる湯気を吹いて口を付ける二人をみんなで見つめる。

「それでこの後のことなんですが」

 カップを空にした歌織さんが二階堂さんを見上げる。二階堂さんは温かな眼差しを返す。

「ええ、ごゆっくりお休みください」

「いえ、そうではなくて。今回の件でお話が」

 歌織さんが志保ちゃんの差し出したトレーにカップをかたりと置く。二階堂さんは表情を一瞬だけ強張らせたが、すぐに「それでは後ほど」と言って相好を崩した。

「歌織ちゃん、話って」

「野々原さんたちは気にしなくていいことよ。それより部屋に戻りましょう。シャワーを浴びたいわ。島原さんもそうでしょう」

 エレナさんが大きく頷く。
 歌織さんとエレナさんを先導するように茜ちゃんが走っていく。と思ったら、茜ちゃんはくるりと踵を返してこちらへ戻ってきて私をギュッと抱きしめた。

「ありがとうね。ユリッチの言うとおり諦めなくて良かったよ。推理してくれたこと、とっても嬉しかったよ」

 そう言ってにっこり笑うと、茜ちゃんはエレナちゃんたちのもとへ走っていった。




99: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:44:30 ID:3iV


「百合子さんの推理、役に立って、良かった……ね」

 杏奈ちゃんが私の顔を覗き込む。私は三人の後姿を見送りながら小さく頷いた。

「ん。百合子さん、元気ない……です。謎が、解けなかった……から?」

「それもあるんだけど、ちょっと気にかかることがあって。でも、二人が帰ってきたんだし、私の役目はおしまいかな」

 杏奈ちゃんの顔に疑問が浮かぶ。あのね、と口を開こうとしたとき二階堂さんが声をかけてきた。

「二人にもいろいろと心配をかけましたね。そのうえで申し訳ないのですが、すぐにランチの準備をお願いします。無事に帰ってきたお二人にしっかりしたものを食べさせてあげたいのです」

 優しい笑顔を向ける二階堂さんの言葉に私と杏奈ちゃんは大きくうなずいた。

「助かりますわ。御礼というわけではありませんが今晩は贅沢に行きますので期待してなさい。志保、アレを準備しておいてくださいまし」

「アレ、ですか。しかし、アレは来週お越しになるお客様のために取っておいたものでは」

「……よろしいのです」

 志保ちゃんは少し驚いた風な表情を見せると、徐々に顔の色をなくしていった。

「あと、今日のディナーには三人とも混ざりなさい。給仕は最低限として皆で楽しみましょう。ああ、今から楽しみですわね」

 そう言って二階堂さんは高笑いとともに自室のほうへ歩いて行った。




100: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:44:41 ID:3iV

「嬉しいん、だよね。二階堂さんは」

 杏奈ちゃんの質問に志保ちゃんは肩を震わせたまま唇をギュッと噛み締めると、大きく首を横に振った。

「奥様は覚悟を決められたんです」

 うつむいたまま漏らした志保ちゃんの言葉に私と杏奈ちゃんは目を見合わせた。そして志保ちゃんは私たちに向き直り、何度かの逡巡ののち固い唇をこじ開けるかのようにつぶやいた。




101: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:45:03 ID:3iV


「奥様は、このホテルをたたむつもりです」




102: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:45:34 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「杏奈ちゃん、ここにいたんだ」

 厨房で作業台に向かう杏奈ちゃんに声をかける。杏奈ちゃんは肩をびくりと震わせて申し訳なさそうにこちらを振り向いた。

「掃除が終わって部屋に戻ったらいないんだもん。びっくりしちゃった」

「ごめんなさい。ちょっと、やりたいことが、あったから」

 杏奈ちゃんはそういうと作業台をちらりと見た。

「それってムース、だよね」

「うん、ランチには間に合わなかったけどディナーに出そうと思って」

 杏奈ちゃんはちょっとだけ微笑むと、茶色い生地が流し込まれた白い器にラップをかけて冷凍室へ入れた。

「準備はこれで終わり?」

「ん、あと白のチョコペンを準備しておきたい、です。ムースが出来たら、絵を描かないと、だから」

「絵って、もしかして」

 杏奈ちゃんは小さくうなずく。

「ホテルをたたむ話をした時、志保、すごく悲しそうだった。だから、少しでも元気になって欲しくて」

 そういえば杏奈ちゃんと志保ちゃんが仲良くなったのは子ネコのムースがきっかけだった。




103: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:45:51 ID:3iV


「せっかく、エレナさんも歌織さんも、無事に戻ってきたのに……。二階堂さんと志保が、こんな目に遭うなんて……ひどいよ」

 杏奈ちゃんはうつむいて、口をぎゅっと結ぶ。
 ランチの後、ラウンジで話し込む二階堂さんと歌織さんを見た。茜ちゃんたちの前では決して見せないだろう剣幕の歌織さんとうなだれて肩を落とす二階堂さん。無事に帰ってきたとはいえ、エレナさんが被害に遭ったことには変わらない。
 ホテルのオーナーにはお客様の安全を守る義務がある。二階堂さんは、エレナさんが攫われた時点でこうなることを想定していたのだろう。それがホテルのオーナーとしての役割なのだからと言われれば仕方ない。




104: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:46:06 ID:3iV


 みんなが自分の役割を果たそうとしている。
 ホテルのオーナーである二階堂さんも、専属のメイドである志保ちゃんも、生徒を守る歌織さんも。そして、パティシエールとして元気づけようとしている杏奈ちゃんも。
 だったら、私は?

「百合子……さん?」

 二階堂さんは探偵を私の人生の役割と言ってくれた。だったら、私も最後までその役割を果たすべきではないだろうか。
 二人が戻ってきたから探偵の仕事は終わりじゃない。だって、探偵の仕事は事件を解決するだけじゃないのだから。

「ねぇ、杏奈ちゃん。手伝ってほしいことがあるの」

 杏奈ちゃんが首をかしげる。しかし、私の目を見るとすぐに真剣な表情になってこくりとうなずいた。

「私の推理を聞いてもらいたいんだ」




105: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:46:43 ID:3iV

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「……その推理、すごくしっくり、きます」

 自室に戻り鍵を閉めると、私は自分の感じている違和感をもとに一つの仮説を杏奈ちゃんに説明した。

「でも、この推理があっているとしても」

「そうなの。怪人が消えた方法がやっぱりネックになってくるの」

 あのとき、部屋には間違いなく怪人がいて、戻ってきたときには誰もいなかった。窓には鍵がかかっていて、その間に部屋の入り口からは誰も出ていない。おかしな点と言えば窓に入っていた大きなひびくらい。

「やっぱり幽霊みたいに透明にならないと無理なのかな」

 私はため息とともにベッドに深く腰掛けた。ギシリと軋んだ音はするりと耳の中へと入りこんでくる。




106: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:47:18 ID:3iV


「あの、百合子さん。その、透明……で思いついたんだけど、窓を交換したっていうのはどうかな」

「交換?」

 杏奈ちゃんはうなずいておずおずと口を開いた。

「百合子さんたちが出ていったあと、窓を割って外に出るの。そのあとに窓を付けなおせば密室の出来上がり、です」

「でも、それだと大きな音が出ちゃうよ。それに外にぶら下がったまま窓ガラスを交換するのは難しいと思うけど」

「ん……それなら、大丈夫、です。最初から窓にガラスじゃなくて透明なあめ細工を仕込む、の」

 杏奈ちゃんの目がきらりと光る。

「あめ細工なら割れても大きな音がしないし、ガラスよりも重くない。パッと見たらガラスと区別はつかないよ。交換するのは難しいかもだけど」

 なるほど、と言って私は顎に手を置いた。
 窓ガラスを交換するという方法は思いつかなかった。あめ細工を使うというのもお菓子作りが得意な杏奈ちゃんらしい発想だ。しかし、杏奈ちゃんが言うとおり交換作業がネックになる。
新しいあめ細工を窓の枠にはめる作業がどれだけ難しいかは分からないが、一筋縄でいかないことは容易に想像できる。




107: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:47:29 ID:3iV


 思索から戻ると杏奈ちゃんが人差し指同士をくっつけながら上目遣いで私を見上げていた。

「とりあえず、もう一度現場に行ってみようか。もしかしたらあめ細工の跡が残っているかもしれないし」

 そう言って立ち上がると杏奈ちゃんは大きくうなずいた。




108: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:47:41 ID:3iV


 誰に会うこともなく二階の問題の部屋へたどり着いた。中に入ると今までと同じようにひび割れた窓が私たちを出迎えた。

 電気を点けてまっすぐ窓際へと歩く。ひびの入った窓ガラスは綺麗に拭きあげられていて、汚れらしい汚れは見当たらない。念のため触ってみるがその感触は窓ふきをしたときのものと同じだった。

「この部屋ってエレナさんが消えてからは掃除していないよね」

「そのはず。志保は近づきたくないって言ってたし」

 杏奈ちゃんの言葉を確認して私は窓の下にしゃがみ込む。もし、あめ細工を使ったのであれば割れた破片や飴のベタベタが残っていそうなものだ。そう考えてカーペットに手のひらを当ててさすってみるが、尖った感触はなく、べたつきも感じない。




109: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:47:59 ID:3iV


「……違ったみたい、です。ごめんなさい」

「一つずつ可能性を試していくのが推理だから。私の大好きな推理小説でもそう言ってるの」

「それって、昨日ベッドの上で読んでいた本の……こと?」

 私は膝をはたいて、首を縦に振った。

「島に行くから孤島サスペンスの本を持ってきたの。まさかこんなことになるなんて思わなかったけどね」

 そう言って私は苦笑いを見せる。杏奈ちゃんも同じように笑ってくれるかと思った。しかし、私の目に映るその顔は引きつったままじっと私の顔を見ていた。
 いや、目線は少しだけ上を向いている。顔というよりは頭の上。

「ダメ! じっとしてて」

 私は上げかけた右腕を電池の切れたロボットのように止めた。




110: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:48:31 ID:3iV


「今、杏奈が、とって、あげます」

 杏奈ちゃんは私の頭上から目を逸らさないまま手近な枕を手に取る。

「動いちゃ、ダメです」

 ケーキを作るときと同じ、いやそれ以上に真剣な目をした杏奈ちゃんがこちらへ歩いてくる。

 ふと、持ってきた小説の一説が頭に浮かぶ。密室の客室で倒れていた女性。首を絞められた跡も刺された跡もない。死因が分からない中、探偵が明らかにした凶器は毒蜘蛛だった。
私はそのイメージを振り払おうと頭を振ろうとしたが、自分の置かれた状況を思い出し、首に力を込めて思いとどまった。

 頭上に枕の影が近づいてくる。私はギュッと目を瞑って肩を縮こませ、何物かが取り除かれるのを待つ。

「……ん、大丈夫です」




111: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:48:50 ID:3iV


 耳に入ってきた優しい言葉に肩の力を抜いた。それどころか膝の力まで抜けてしまいへなへなと座り込む。
 
「それで、なんだったの。クモ? ハチ? それとも」

 杏奈ちゃんは首を横に振って枕の先をこちらへ向けた。

「見間違い、でした。その……窓ガラスのひびがクモの巣に見えて、クモがいるって」

「分かるよ。私も最初に見たとき、クモの巣みたいだなと思ったもん」

 私はそう言って枕の先のホコリを払おうとした。

「……どうかしたの。まさか」

「ううん、違うの。クモがいるとかじゃなくて」

 私は目をつぶって考えを整理する。そして、小さくうなずいてから口を開いた。




112: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:48:59 ID:3iV


「分かったかもしれないの。どうやって怪人があの部屋から出て行ったのか」




113: ◆U2JymQTKKg 21/03/16(火)22:50:50 ID:3iV

今日の分はとりあえずここまでです。
明日は推理パートを含めた残りとなります。




114: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:42:03 ID:KIP

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「おまたせー! っと、茜ちゃんたちが最後みたいだね」

 ラウンジに入ってくるなり茜ちゃんはクルリと回り、エレナさんと一緒に室内を見渡す。

「んー、アンナがまだ来てないヨ」

「杏奈ちゃんには別の部屋で準備をしてもらってます」

「準備って、杏奈ちゃんを一人きりにしているの? そんなことをして怪人がまた現れたら」

「安心してください。それについてはあとで説明します」

 いきり立つ歌織さんをなだめて、茜ちゃんたちに手近なソファーに座るようすすめた。二人が座ったのを確認して、全員を見渡せるように中央の壁際に移動した。

「それじゃあ、教えていただけますか。なぜわたくしたちをラウンジに集めたのか」

 二階堂さんは暖炉前のチェアに深く腰掛け、ひざの上で手を組んだ姿勢で私をじっと見た。




115: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:42:22 ID:KIP


「ランチ前の貴重な時間を割いていただきありがとうございます。みなさんにどうしてもお話したいことがあり集まってもらいました。それはこの数日間で起きた事件についてです」

 私が何を話すのかなんとなく想像がついていたのか、みんなの表情に驚きはない。ただ、歌織さんは眉をひそめ、二階堂さんは口の端に笑みをたたえていた。そして、真っ先に口を開いたのは茜ちゃんだった。

「えーっと、ユリッチ、事件のことって言ったけど、エレナちゃんも歌織ちゃんも戻ってきたんだよ。昨日の夜も何もなかったんだし、あとは船に乗って帰るだけだよ。今更話すことなんてなくない?」

「そうだよネ。それともユリコは怪人がどこに隠れているか分かったノ?」

 茜ちゃんに続きエレナさんから出た質問にわたしは首を振る。

「いえ、私には怪人がどこにいるかは分かりません。ただ、怪人につながる手掛かりは見つかりました」

 今度はみんなの顔に明らかな驚きの表情が現れた。




116: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:42:37 ID:KIP


「まず確認しておきたいのはなぜ怪人はエレナさんたちをさらったのかということです」

「それって一昨日の夜に話したことですか? 確か、エレナさんたちが宝探しに来たから怪人が怒ったんじゃないかって話でしたよね」

 先程までじっと黙っていた志保ちゃんが口を開いた。

「今まで志保ちゃんや二階堂さんがさらわれなかったことを考えると、そう考えるのが妥当だと思います」

「じゃあ、もしかしたら茜ちゃんもさらわれていたかもしれないわけ?」

 茜ちゃんが両腕を抑えながら顔をゆがめる。

「ただ、そう考えると当然の疑問がわいてきます。怪人は逃げた二人をなぜ取り返しに来ないのか」

 私は右手の人差し指をピンと立てた。

「私たちが逃げたことに気付いていないということかしら」

「いえ、島原様と桜守様が戻ってきてからそろそろ一日が経ちます。さすがに気付くでしょう」

「でしたら、簡単な話です。怪人は桜守様たちが今日、島から出ていくことを知っているからではなくて」

 二階堂さんの言葉に私は大きくうなずいた。




117: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:42:51 ID:KIP


「宝探しに来た皆さんを狙ってきた怪人です。出ていくことも知っていると考えても不思議ではありません。それでは、もう一つ質問です」

 私は全員の顔を一瞥して口を開いた。

「怪人は歌織さんたちが観光ではなく宝探しに来たこと、そして今日この島から出ていくことをどうして知っていたのでしょう」

 ラウンジの空気がピンと張り詰める。誰もが私の言葉の意図することを瞬時に理解したらしい。暖炉の火がひときわ大きく揺れ、ぱちりとまきがはじける音が室内に響いた。

 私は小さく息を吸って、改めて口を開いた。

「つまり、この中に怪人の仲間がいます」




118: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:46:05 ID:KIP

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 最初に口を開いたのは茜ちゃんだった。

「えっと、冗談きつくない? 確かに、怪人がどうやって茜ちゃんたちが宝探しに来たのかを知ったのかは分からないけど、でも、それだけで怪人の仲間がこの中にいるっていうのはどうかな」

「そうだよ! それにワタシ、この中に犯人のナカマがいるなんて、考えたくないヨ」

 茜ちゃんがエレナさんをなだめようと背中に手を置いた。

「わたくしも今の百合子の話には疑問が残ります。仮定の上に仮定を重ねた話では信憑性がないのではなくて?」

 二階堂さんが顎に手を置いたまま私を見据える。




119: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:46:34 ID:KIP


「おっしゃるとおりです。もちろん理由はそれだけではありません。二日目の朝、エレナさんがいなくなったことに気付いたのは茜ちゃんでしたよね。あの時、私は外の掃除から戻ってきたところでした」

 茜ちゃんはおずおずとうなずく。

「うん、起きたら隣にいなくて、それでエントランスにきたらユリッチがいて」

「それで茜ちゃんは外に探しに出かけた。この時にエレナさんは例の部屋にいたと言うことでよろしいんですよね」

 エレナさんは肩をびくりと震わせて、しばらくしてからようやくうなずいた。

「私は外の掃除をするときに玄関のカギを開けてから外に出ました。つまり、私が掃除を始めるまで、ホテルは完全に施錠されていたことになります。その状態でどうやって怪人はホテルの中に忍び込んだのでしょう」

 口を開こうとした茜ちゃんが言葉を詰まらせる。

「でも、ユリコはずっと外を掃除していたんでショ? だったら、玄関の前にずっといたわけじゃないんじゃないノ」

「ええ。私もエレナさんの時だけだったらそう考えました。しかし、歌織さん誘拐事件が起きました。あのとき、既に私たちの一日の仕事は終わっていました。だからこそ、茜ちゃんと話をすることが出来ました」

「……なるほど、それはおかしいですね」

 志保ちゃんが言葉をつなぐと、エレナちゃんが首をかしげた。

「おかしいって、何がおかしいノ」




120: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:47:36 ID:KIP


「私たちの最後の仕事は屋敷の鍵が閉まっているかどうかを確認することなんです。あのとき、桜守様の声はエントランスホールから聞こえてきました。つまり、どなたかが怪人をホテルの中に招き入れないと桜守様を襲うことはできないんです」

「もちろん私たちが閉め忘れた可能性だってあります。しかし、エレナさんの件と歌織さんの件の両方が起きているのです。偶然ではなく内通者がいると考えるのが自然でしょう」

 エレナさんは不安そうな表情を隠そうとせず茜ちゃんの手をぎゅっと握った。

「私からもいいかしら」

 歌織さんが手を挙げる。




121: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:47:58 ID:KIP

「百合子ちゃんはホテルの鍵が閉まっていたのに入ってきたから内通者がいると考えているのよね。でも、大事なことを見落としているんじゃないかしら。怪人はエレナさんを密室から連れ出したのよ」

「そっか、カベを通り抜けられるんだったら鍵とか関係ないもんね。さすが歌織ちゃん」

 茜ちゃんが指をぱちりと鳴らす。

「エレナさんがさらわれてからすぐにあの部屋とホテルの外を探しましたが、あの部屋から外に出る方法が見つからなかったことは百合子ちゃんも分かっているはず。その事実がある以上、怪人の行動に人間の理屈を重ねるのは不自然じゃないかしら」

 歌織さんはにこりともしない。ラウンジの視線が私に集まることを感じつつ、歌織さんの視線を両目でしっかりと受け止める。

「おっしゃるとおりです。怪人があの部屋を抜け出した方法が分からなければ私の推理は妄想にすぎません。……分からなければの話ですが」

 腕時計に目を落として、驚きの表情が現れた全員の顔を見た。

「そろそろ準備ができたはずです。お見せしましょう、怪人がどうやってあの部屋から脱出したのかを」




122: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:49:40 ID:KIP

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 エントランスホールの大階段を上り、東棟の二階へ向かう。
 先頭を歩く私は立入禁止の看板の前で足を止め、後ろをついてくる五人のほうを向いた。

「ここであの朝のことを振り返りましょう。先程も言いましたが、事件が発覚したのはエレナさんがいないことに茜ちゃんが気付いたからでした」

「そうだよ。それでエントランスに言ったらユリッチがいたんだけど、エレナちゃんがどこに行ったか知らないっていうから茜ちゃんは港へ探しに行ったんだよね」

「そして、朝食の時間まで島原さんがお戻りにならないので桜守さんの指揮のもと、全員で探し始めた。その後、百合子さんと野々原さんが二階のあの部屋で怪人に遭遇した」

 志保ちゃんが看板の先の廊下をちらりと見る。一部屋だけドアが開けっぱなしになっていることに気付いたらしく、その端正な顔を少しだけゆがめた。




123: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:49:59 ID:KIP


「茜さんが私たちを呼びに来る間に百合子ちゃんがここであの部屋を見張ってくれていたのよね。その間、怪人は部屋から出てこなかった。みんなが集まったあと、怪人がいた部屋をのぞいたらエレナさんも怪人もいなかった」

「そのあとは皆で室内を探して、次にホテルの外を探しましたわね。それでも怪人はもとより島原様も見つからなかった」

 歌織さんと二階堂さんの話が終わると私は小さくうなずいて人差し指を一本立てた。

「エレナさん誘拐事件のポイントはどうやってあの部屋から抜け出したかということです。部屋の窓の鍵は閉まっていて、廊下は私が見張っていた。いわゆる密室状態でした」

「ねぇ、ユリコ、話は分かったから早くワタシを連れ出した方法を教えてヨ。もう準備はできたんじゃないノ」

 エレナさんの言葉に茜ちゃんが首を縦に振る。私はチラリと廊下の先を見て、人差し指で頬を掻いた。

「え、えーっと、そうなんですけど、準備が出来たらここで杏奈ちゃんが待っているはずだったんです。でも、いないってことは準備ができてないみたいで」

「だったら、聞いてみたら早いじゃん。ねー、杏奈ちゃん。準備できたのー?」

 薄暗い廊下に茜ちゃんの声が響く。




124: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:50:17 ID:KIP


「アンナー、もう待ちくたびれちゃたヨー」

 続いてエレナさんの声。しかし、返ってくる声はなく、聞こえるのはわずかに外から洩れ聞こえる海鳥の声だけだ。

「まさか、杏奈ちゃんが怪人に」

 茜ちゃんのつぶやきに皆が息をのむ。
 私の隣を黒い影が駆け抜けていく。看板の横を通り抜け、脱兎のごとく開け放された部屋へと向かっていく。

「待ちなさい、志保」

 二階堂さんが叫ぶように声を上げるが志保ちゃんは止まらない。二階堂さんが志保ちゃんを追いかける。二人を追う形で全員が薄暗い廊下を駆けていく。
 先を行く志保ちゃんが勢いよくドアの開いた部屋へ入っていった。すぐに二階堂さんが、そして私たちが部屋へ飛び込む。

 部屋に杏奈ちゃんの姿はなかった。




125: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:51:10 ID:KIP

「ひび割れた窓に誰もいない部屋……。これって、エレナちゃんがさらわれたときと同じだよね」

「じゃあ、アンナは……」

 エレナちゃんが茜ちゃんに身体を寄せると、茜ちゃんがエレナちゃんの両手をぎゅっと握る。
 部屋の窓が風に揺れ、ギシリと音を響かせる。窓をじっと見ていた志保ちゃんが急に振り向き、キッと私をにらみつけると早足で詰め寄ってきた。

「どうして杏奈に一人で準備をさせたんですか! 怪人が来ないと思ったからですか! 百合子さんは、百合子さんは杏奈の親友じゃなかったんですか」

「落ち着きなさい、志保」

「そうだよ。しほりん、今は早く杏奈ちゃんを見つけ出さないと」

 二階堂さんがかばう様に私たちの間に割って入り、茜ちゃんが志保ちゃんの肩を抑えた。志保ちゃんは肩から力を抜いたように見えるが私から決して視線を外そうとはしなかった。

「でも、どこを探せばいいんだろう? やっぱり外かナ?」

「そうですね。とりあえず、森へ行きましょう。奥様、許可をお願いします」

「その必要は、ない……です」

 突如入り口から聞こえてきた言葉に全員が振り向く。




126: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:52:16 ID:KIP


「杏奈! 大丈夫なの」

 真っ先に志保ちゃんが駆け寄って、エレナさんと茜ちゃんが続く。

「心配かけて、ごめんね。なんともないよ」

「そうなの、良かった。でも、いったいどうやって怪人のもとから逃げ出してきたの」

「ん……。杏奈、怪人に捕まってない、です」

 杏奈ちゃんの肩を抱く志保ちゃんが疑問の声を上げる。

「だから、杏奈は怪人に捕まってない……の。ずっと、隣の部屋にいた、よ」

「いったい、どういうことですの。だって、杏奈は島原様がさらわれた部屋で準備をしていると百合子が」

「まさか、ユリッチが言った杏奈ちゃんが例の部屋にいるっていうのはウソ、とか」

 茜ちゃんの言葉に全員の視線が私に集中する。




127: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:52:40 ID:KIP


「いえ、私はウソをついていません。杏奈ちゃんには私と茜ちゃんが怪人に遭遇した部屋で待機するようにお願いしましたし、杏奈ちゃんはそれを守っていました」

 杏奈ちゃんが小さくうなずく。

「だったら、この部屋にアンナがいないとおかしいことになっちゃうヨ」

「それでは質問ですが、エレナさんはどうしてこの部屋が自分のさらわれた部屋だと思いましたか」

 質問されると思っていなかったのだろう。エレナさんは少し驚いた風な顔をしたがすぐに答える。

「それはだって、ほら、窓にひびが入っているでショ」

 エレナさんが窓を指さす。

「それでは、もう一つ質問です。この部屋の窓にひびは入っていますか」

 エレナさんの顔に、いや、この部屋にいるほとんどの人間の顔に困惑の色が浮かび上がった。

「ひびが入っているかも何も、見ればわかるでしょう。ほら、ここに……」

 窓辺に移動した二階堂さんはガラスをまじまじと見て、そっと表面をなぞった。

「百合子、これは一体どういうことですの」

「どういうことって。奥様、窓のひびがどうかしたのですか」

「ひびではありません。これは、黒いペンで書かれた線です」




128: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:53:19 ID:KIP


 二階堂さんは手を開いてみんなに見せた。人差し指の腹が黒く汚れている。

「これが怪人の使ったトリックです」

 私は改めて人差し指を立てる。

「怪人は窓にペンで線を書いてひびに見せることで、自分たちがいる部屋は”窓にひびが入った部屋だ”と錯覚させたのです。
そして、私と茜ちゃんはこのトリックに引っかかり、本当に窓がひび割れた部屋へみんなを案内してしまった。その間、怪人はこの部屋で待機をし、私たちが捜索を止めたタイミングで、こっそりホテルから外へ出たというわけです」

「ちょっと待って。それって茜ちゃんたちがこの部屋を探さなかったから成功したんだよね。じゃあ、怪人は偶然、外に逃げることが出来たってこと?」

 私は首を横に振る。

「偶然なんかじゃありません。だって怪人には内通者がいたんですから、私たちにこの部屋を探させないようにさせればよかったんです」

 私は茜さんから目を話し、ある人物のほうを向いた。

「あの場でそれが出来たのは一人しかいません。エレナさんがいなくなってからずっと指揮を執り、この部屋を探した後にホテルの外を探そうと提案した貴女しか」

 私はゆっくりと手を上げ、こちらを無表情で見つめる彼女のほうへ向けた。




129: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:53:38 ID:KIP

「怪人の内通者、それは桜守歌織さん、貴女です」



130: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:54:13 ID:KIP

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 青空を飛ぶ海鳥の影が部屋を一瞬だけ暗くし、歌織さんの顔に刺す影を濃くした。

「百合子ちゃん、私が怪人の内通者ってどういうことかしら」

 日差しに照らされた歌織さんはにっこりと微笑んで手を後ろに組む。

「確かにエレナさんがいなくなった時、私は進んで指揮をとっていたわ。でも、それは教師として当然のこと。聖職者としての義務を果たしただけで犯人扱いされたらたまったものじゃないわ」

「そうだヨ! それにカオリも怪人にさらわれたんだヨ? 一緒に逃げ出してきたワタシが言うんだから間違いないヨ」

 入り口にいたエレナさんが前に進んで声を荒げる。




131: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:54:31 ID:KIP


「確かに歌織さんは二つ目の事件の被害者です。しかし、それも内通者だから被害者になれたこと。先程も言ったとおり、あの時ホテルのカギは全て閉まっていたんです。誰かがカギを開けなければ怪人を中に呼び込めなかった」

「ひどい言い草ね。私が犯人だという前提のお話だわ。だいたい、どうして私が被害者にならなければいけなかったのかしら」

「それはエレナさんをホテルに戻すためです」

 エレナさんが小さく声を上げる。

「エレナさんを解放するためには森に監禁したエレナさんを見つけ出さなければいけません。しかし、二階堂さんと志保ちゃんの監視を潜り抜けて森の中へ入り、戻ってくるのは不可能に近かった。そこで自分がさらわれたかのように見せかけてエレナさんをホテルに連れて帰ってきた」
 
「それじゃあ、怪人が島原さんを取り返しに来ないのって」

「ええ。エレナさんは元から返す予定だったのではないでしょうか。危害を加えられていないのもそれが理由ではないかと」




132: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:54:50 ID:KIP


「いい加減にしてちょうだい。さっきから可能性ばかり。私が怪人とつながっているという証拠はあるの」

 歌織さんは腕を広げて声を荒げた。その顔には先程までのエレガントさはかけらも残っていない。

「ありますよ。モノではありませんけどね」

 歌織さんの眉毛がピクリと動く。




133: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:55:15 ID:KIP

「二つ目の事件について振り返りましょう。事件の発覚は歌織さんの悲鳴がきっかけでした。ホールから聞こえてきた声を頼りに全員がホールに集まります。そして中庭へのドアが開いていることに茜ちゃんが気付き、全員で中庭へ出た」

「そうだよ。それで中庭に出たらシーツみたいなものにくるまれた歌織ちゃんを抱えた怪人がいて、茜ちゃんたちに気付いた怪人は森の中へ逃げていったの」

「その後、野々原様が怪人を追いかけてしまったので、わたくしが野々原様を追いかけた。志保たちにはホテルで待機するよう伝えましたわ」

「杏奈たちは、言われたとおりにホテルで待ってて、志保は、自分の部屋で寝てた。しばらくしたら二階堂さんが茜ちゃんを連れて帰ってきた。そして、次の日に二人が帰ってきた……だよね」

 私はみんなの一言にうなずき終えると、歌織さんが口を開いた。

「今の話の中に、私が怪人の仲間だという証拠があるのかしら」

「あります。志保ちゃん、ちょっと思い出してほしいことがあるんだけどいいかな」

 不意に声をかけられた志保ちゃんは怪訝そうな表情をしつつも小さくうなずいた。




134: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:55:31 ID:KIP


「歌織さんとエレナさんが戻ってきたときのことなんだけど、歌織さんの髪型ってどうだった」

「髪型ですか。特に変わったことはありません。今と同じ編み込みを後ろで結んだ髪型でしたが」

「それは屋敷に二人が現れたときからってことでいいんだよね」

 志保ちゃんは一秒ほど天井を見つめ、首を縦に振った。

「ありがとう。それじゃあもう一つ。歌織さんがさらわれたとき、どんな髪型だったか覚えてる?」

「どんなって、百合子さんも覚えているんじゃないですか。髪をほどかれていましたよ。長い髪がシーツみたいなものの先から……」

 そこまで言って志保ちゃんは何かに気付いたような顔をした。歌織さんをちらりと見ると自らの髪を手で触っていた。




135: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:55:47 ID:KIP


「そう、歌織さんは怪人にさらわれるときは髪がほどけていたのに、戻ってきたときは髪を結んでいたんです。歌織さんの編み込みは見て分かるとおり、すぐにセットできるようなものではありません。少なくとも怪人のもとから逃げ出す前にセットはできないでしょう」

 歌織さんは頭に手を当てたままじっと床を見つめている。

「それではほら穴で結ったのでしょうか。それもおかしい。なぜなら目の前には怪人がいるのだから。髪を結う精神的な余裕があるとすれば、それは怪人のことをよく知っているということになります」

 部屋中の視線が歌織さんに集まる。私は小さく息を吸った。

「いつ髪を結ったとしても歌織さんが怪人の内通者でなければ説明がつかないんです。諦めてください」

 歌織さんはゆっくりと顔を上げて私を見た。そしてそのまま顔を天井に向けると大きく息をはきだして改めて私に顔を向けた。




136: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:56:36 ID:KIP


「参ったわ、百合子ちゃん。いいえ、探偵さん」

「それじゃあ」

「ええ、今回の件は私が仕組んだことよ」

 肩の力が抜けきった歌織さんは窓辺の椅子に腰を下ろした。

「そっか。髪の毛でバレちゃうか。エレナちゃんをさらったときと同じだと見せかけるためにやったことがアダになっちゃうなんてね。ところで私からもひとつ聞いていいかしら」

 私はかすれた声で返事をする。まさか歌織さんから質問が来るとは思わなかった。

「どうしてエレナちゃんをシーツでくるんでいたんだと思う?」

「暴れないようにするためですよね。声を出されて気付かれたらトリックが台無しですから」

「なるほど。それじゃあ及第点は上げられないわね」

 歌織さんは笑みを作ったかと思えばスッと立ち上がり右手を上げた。




137: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)22:56:53 ID:KIP


 何が起きたのか気付いた時にはもう遅かった。背後からの破裂音に振り向くと、杏奈ちゃんが叫び声をあげながら抱きついてきた。

「動かないで」

 杏奈ちゃんを受け止めて入り口を見るとエレナさんと茜ちゃんが志保ちゃんの両脇に立っていた。――鈍く光る拳銃とナイフを突き付けた状態で。

「推理だけで犯人を追い詰めたと思っちゃダメだよ、ユリッチ」

 そう話す茜ちゃんの顔には私の人生で見たことのない類の笑みであふれていた。




138: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:04:30 ID:KIP

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 私は杏奈ちゃんの肩をしっかりと抱いて、壁に背中をつけた。入り口に立つ二人は志保ちゃんを拘束したままだ。一方の窓際の歌織さんは二階堂さんと正面から対峙する形をとっている。

「惜しかったわね、百合子ちゃん。真相まであと二歩ってところだったわ」

 二階堂さんから目を離さずに歌織さんが口を開く。

「歌織さんだけじゃなくて、茜ちゃんもエレナさんも怪人の内通者だったってことですか」

「怪人、ね……。やっぱり見てしまうと信じちゃうわよね」

 歌織さんの口角が上がる。

「ごめんね、ユリコ。怪人なんていないノ。アカネと一緒に見た怪人の正体はワタシ。シーツにくるまれていたのはウィッグをつけた人形ダヨ」

 太陽のような笑顔を見せながらエレナさんはナイフをくるくる回す。

「歌織ちゃんの時も同じ。だから戻ってきたときも髪を編んだままだったんだよね。上手くいけばこんなことしなくてもこの島は茜ちゃんたちのものだったのに。まったくドジなんだから~」

 茜ちゃんがケラケラ笑って軽口を叩く。その表情と志保ちゃんに突き付けた拳銃がアンバランスで、私はのどに渇きを覚えた。




139: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:06:52 ID:KIP


「目的は、なんですか。この島を奪い取っていったい何を」

 二階堂さんが歌織さんの手元をちらりと見る。よく見ると歌織さんの右手にもナイフが鈍く光っている。

「この際、島もホテルもいいんです。財宝さえいただければね。正直にお答えいただければ志保ちゃんにも危害は加えません」

「茜ちゃんたちは怪人じゃなくて怪盗だからね!」

 何が怪盗だ。やっていることは強盗だ。怪盗というのはもっとスマートなものだ。もちろん、そんなことはおくびにも出せない。

「……このホテルに貴女たちが欲しがるような財宝はございません。今からでもほかを当たったほうがよろしいのではなくて」

「何をおっしゃいますか。あるでしょう? “こがねいろ”が」

 歌織さんがニンマリと笑う。




140: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:07:09 ID:KIP

「ないとは言わせません。調べはついているんです。過去に貴女が行った調査の結果は確認しています。骨が折れる作業でした」

「調査報告書を確認したのでしたら、なおのこと財宝がないことはお判りでしょう」

「しらばっくれますか? よほど志保ちゃんの命が惜しくないんですね」

 エレナちゃんが笑みを消してナイフを持ち直す。二階堂さんが動こうとするが歌織さんのナイフが行く手を阻む。

「記録には残ってなくても証言があるんですよ。こがねいろを発見した、っていうね」

 二階堂さんの目が大きく見開かれる。




141: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:09:26 ID:KIP


「所長さんにお話しいただくまで時間がかかりました。当時亡くなった二名の調査員のメモにそう書かれていたということじゃないですか。報告書には書かないだけで二階堂さんには伝えたとおっしゃっていましたよ。
しかし、貴女はそれ以降調査を行っていない。つまり、行う必要がなくなったということでしょう? 怪人のうわさもそのままにされていたようですし。貴女の手元にこがねいろがあるということ。違いますか」

 歌織さんが歌うように話す。二階堂さんはチラリと志保ちゃんを見て、そっと目をつぶった。

「私のことは構わないでください。奥様にはこのホテルを守る義務があるんです。だから」

 話の腰を折るように茜ちゃんが志保ちゃんの頭を拳銃ごと壁に押し付け、エレナさんが志保ちゃんの頬にナイフを当てる。

「もー、傷つけるのはイヤだって言ってるでショ?」

「さぁ、どうしますか。従業員の命を守るか。ホテルを守るか。礼儀正しい二階堂さんなら考えるまでもなく答えは出るでしょう」

 歌織さんが心の底から楽しそうに微笑む。
 二階堂さんはもう一度志保ちゃんを見た。そして背筋を伸ばすとキッと歌織さんをにらみつけた。

「そんなの決まっていますわ。わたくしはここの主人。ホテルを守る義務があります」




142: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:09:39 ID:KIP


 歌織さんの眉毛がピクリと動いた。

「……そうですか。それでは」

「やめて!」

 杏奈ちゃんの叫び声が室内に響き渡る。茜ちゃんとエレナさんの顔から笑みが消え、志保ちゃんが肩の力を抜いて目をつぶる。

「ええ、全てをお話しましょう。それで志保が助かるというのであれば」




143: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:09:51 ID:KIP


 歌織さんが目を丸くした。そして、声を上げて笑うと茜ちゃんたちにアイコンタクトを送った。

「てっきり断られるかと思いました」

「それは貴女が誤解をしていたからでしょう。このホテルは従業員とお客様がいて初めてホテルたり得るのです。ここで志保を見捨てるようであればわたくしはオーナー失格です」

 二階堂さんの啖呵に歌織さんは満足そうに笑った。

「ですが、わたくしの答えは変わりません。このホテルには財宝はありません。こがねいろは……財宝などではないのですから」




144: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:25:26 ID:KIP

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

歌織さんの顔に影が差す。今度は海鳥のせいではない。

「私にウソをつこうというのですか。こがねいろが財宝でなければなぜわらべ歌として歌い継がれてきたのでしょう」

「確かに地域に残る歌や言い伝えが財宝につながる例はあります。しかし、この島のわらべ歌は別のことを指しているのです」

「もしかして……危険を知らせているということですか」

 歌織さんの表情を気にしつつおそるおそる口を挟むと二階堂さんは首を縦に振った。




145: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:26:25 ID:KIP


「この島の森の奥にはガスが発生する地帯がございます。この島に集落があるころは森に採集へ出ることもあったそうですから子供たちに注意を促すために作られたのでしょう」

「では、なぜ報告書に上がってないのですか。まさか調査会社がミスをしたとでも」

 二階堂さんはチラリと志保ちゃんを見ると、そのまま口を閉じた。歌織さんがナイフをちらつかせると二階堂さんは観念した目つきで話をつづけた

「報告書に書かれなかったのは所長さんの計らいでした。わたくしがこのホテルを引き継いで日が浅く、そんな状態で島に有毒ガスが出ると知られたらお客は来なくなる。幸いにもガスが出るのは森の奥。黙っていれば問題はないから、と」

「もしかして、調査の時に亡くなられた二人というのは」

 二階堂さんは力なくうなずいた。

「ガスのせいでした。報告書に書かれなかったのは自社の社員のせいで島の評判に傷をつけてしまったという負い目が所長さんにあったのだと思います。
わたくしは、所長さんの厚意を受け取りました。お二人が亡くなった理由は所長さんが懇意にしているお医者様を通じて別のものに差し替えられました」

 二階堂さんが顔を入り口のほうへ向ける。志保ちゃんはじっと二階堂さんの顔を見つめていた。その顔は震えているが突き付けられている拳銃のことを忘れているかのようだった。




146: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:27:39 ID:KIP


「志保を引き取ったのは、わたくしにも負い目があったからでした。わたくしが調査を依頼しなければこの子はみなしごとなることはなかった。さらに両親が死んだ本当の理由も知ることはできない。所長さんは自分で引き取るつもりみたいでしたが、わたくしが強くお願いしました」

「じゃあ、怪人のうわさは」

「森の奥に入るものが出ないようにと作りました。宝探しに来た人をけん制する目的でしたが、まさかこのような形で利用されるとは」

 二階堂さんは顔を上げ、歌織さんに相対した。

「以上がこの島の秘密です。財産などないのです。あるのは有毒なガスと人間臭い隠し事だけ。どうぞお引き取りください」

 二階堂さんは手をお腹の前で組むと深々と頭を下げた。




147: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:27:57 ID:KIP


「……野々原さん、意見を聞かせてもらえるかしら」

 二階堂さんにナイフを向けたまま歌織さんが話す。

「ウソじゃないと思うよ。辻褄はあってるし、下調べで分からなかったところも今の話で納得がいったもん。それに、こがねいろの正体についてもなんとなく分かった気がするよ。でも、茜ちゃんたちが探しているものじゃないかな」

「それでは、あなたの目論見が外れたということでいいのかしら」

「茜ちゃんは『お宝の可能性があるよ』って話をしたと思うんだけどにゃ?」

 歌織さんの厳しい視線を茜ちゃんはさらりと受け流す。

「……まったく」




148: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:28:50 ID:KIP


 そうつぶやいたかと思えば、歌織さんはジャケットの左ポケットから何かを取り出して強く床に叩きつけた。瞬間、室内は強い光に包まれ、私の視界は痛みとともに真っ白になった。眩んだ眼を手で覆っていると、目の前を誰か続けざまに通り過ぎていくのを感じた。

 両目が色を取り戻し始めたときには窓辺に歌織さんの姿はなかった。
 隣に杏奈ちゃんがいることを確認し、部屋の入り口に目を向けるとやはり茜ちゃんもエレナさんも姿を消していた。確認できるのはひしと抱きあう二つの影だけだった。

 部屋の中が一瞬暗くなった。度窓に目をやると偽物のヒビの向こうに青々とした空を気持ちよく飛ぶ海鳥が見えた。




149: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:30:06 ID:KIP

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ラウンジに戻り、二階堂さんをソファーに座らせた。歌織さんが逃げ出したあとに志保ちゃんに駆け寄る際に足をくじいてしまったらしい。杏奈ちゃんから救急箱を受け取った志保ちゃんがテキパキとテーピングを始める。

「申し訳ありません、志保」

 目を伏せる二階堂さんの言葉に志保ちゃんはチラリとだけ顔を上げると、すぐに患部に視線を戻した。

「奥様の世話は私の仕事ですから。気になさらないでください」

「そうではございません」

 志保ちゃんがテープを巻く手を止めた。

「わたくしはあなたのご両親のことをずっと黙っていただけでなく、ウソをつき続けていました。しかも志保のためではなく、このホテルのためにです。到底許されることではありません」

 暖炉がパチパチと音を立てている。志保ちゃんの目にはオレンジ色の火が映っていた。志保ちゃんがまぶたを閉じると瞳に映っていた暖炉の火はまるで海に沈む夕日のように闇に飲み込まれる。




150: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:30:30 ID:KIP


「……さすがに両親のことを聞いた時は驚きました。ただ、どんな原因であろうとも父と母がこの島で命を落としたということに変わりはありません。奥様がウソをついたことは些細なことではないでしょうか」

 杏奈ちゃんが上げかけた手を止め、顔を背けた。たぶん私と同じ気持ちなのだろう。かける言葉が見つからない。

「ただ、奥様のついたウソはホテルだけでなく、働く従業員を守るためのものでした。私が許すかどうか判断できるものではないと思います」

 志保ちゃんがテーピングを再開した。ぐるぐるとまかれたテープで二階堂さんのふくらはぎと足の甲がだんだんと白くなっていく。

「なぜ自分の心を殺すのです」

 二階堂さんが言葉を発したのは志保ちゃんがテーピングを終えたのと同じタイミングだった。

「わたくし告白した時のあなたの表情はしっかりと見ています。騙されていたことがショックだったのでしょう。そうであれば」

「私に奥様を非難しろというのですか」

 暖炉の火がゆらりと揺れた。




151: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:31:21 ID:KIP


「物心ついた時には私はあなたに育てられていました。ホテルの経営が厳しいときも頼りにしていた従業員がいなくなった時も全部私は見てきたんです。それでもあなたはこのホテルを見捨てることはしなかった。
そんなあなたの背中を知っている私が、自分以外のものを守ろうとしてウソをつき続けたあなたを非難できるわけがないじゃないですか」

 膝をついたまま一息に捲し立てた志保ちゃんは肩で大きく息をした。

「それに、このホテルは両親が今まで守ってくれたんですよ。写真の中でしか覚えていない両親が残してくれたようなものなんです。奥様のウソを責めたくはありません」

 志保ちゃんは目を細めて微笑むと二階堂さんの手を取り立ち上がった。




152: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:31:53 ID:KIP


「百合子さん、杏奈。今回は本当にありがとう。あなたたちがこのホテルに来てくれなければ私も奥様もひどい目に遭っていたと思うわ」

「そんな……杏奈たちは、たまたまこの島に来てしまった、だけ……だよ」

「そうだよ。私が早とちりしちゃったからで御礼だなんて」

 戸惑う私たちに志保ちゃんはクスリと笑った

「なら、この島に迷い込ませた神様にでもお礼を言うべきかしら。怪人はいなくても神様はいてもいいはずだから」

 志保ちゃんの隣に立つ二階堂さんが微笑んでうなずいた。

 ホールの大時計が鐘を一つついた。窓の向こうからは船の汽笛が聞こえる。

 私と杏奈ちゃんのちょっとした冒険はようやく幕を閉じた。




153: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:38:40 ID:KIP

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 自宅のドアを開けると待ち構えていた母が抱きついてきた。
 怒られると覚悟していただけに驚いてしまったが、耳元で繰り返される「馬鹿」や「ドジ」に混じった「良かった」という言葉に自らのやったことの重大さを改めて思い知った。
 お腹の底から溢れてくる感情がごちゃまぜになる。私は掠れた声で「ただいま」と返すので精一杯だった。

 その日の晩御飯は私の好きなものばかりが出た。いつも言葉数の少ない父がよく喋るのが印象的だった。




154: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:39:24 ID:KIP

 私の生活はすぐに日常に戻っていった。学校が始まり、数学と理科に苦しめられる日々に溶け込んでいく。

 桜が葉桜へと変わり、地を這うように飛ぶツバメが姿を見せなくなったころ、私はいつものように杏奈ちゃんの家の前で彼女が出てくるのを待っていた。
しょぼしょぼする目をこすりながら大きなあくびをすると足元にネコが一匹すり寄ってきた。しゃがみ込んでひと撫ですると嬉しそうに喉を鳴らす。

「おはよう、ございま……」

 ドアから出てきた杏奈ちゃんは挨拶を言いきらないうちに大きく口を開けた。ネコがひと鳴きすると杏奈ちゃんは恥ずかしそうに笑った。




155: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:40:47 ID:KIP


 ネコに手を振り、並んで学校へと歩き出す。
 日に日に濃くなる街路樹の影が本格的な夏の到来を知らせてくる。

 しばらくしたら長い夏休みが始まる。例年は旅行に出かけていたが今年は難しいかもしれないと母には言われている。まぁ、春休みにあれだけの大冒険をしたのだから更なる刺激を求めるのは贅沢だ。
こういう場合は、大人しく書籍の山とネットの海で過ごすに限る。杏奈ちゃんはどうするんだろうと隣を見たら、ちょうど片手で口を押えようとしているところだった。




156: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:41:23 ID:KIP


「夕べは遅かったの? でも、昨日もインしてなかったよね」

 インというのはもちろんネットゲームへのログインのことだ。

「ん……、最近、お店にお客さんが増えて。杏奈も次の日の仕込みをしないと手が回らなくなって、それで時間がかかってる」

「繁盛してるって聞いてたけど、そんなになんだ。口コミの力ってスゴイね」

「嬉しい悲鳴、です。広めてくれた人には、お礼をしたい……な」

 杏奈ちゃんが口元に手をやって頬を緩ませる。そして、小さくあくびをした。

「しばらくは授業中に寝ないようにするのが大変そうだね」

「でも、百合子さんも、眠そう……です。新しい本でも、手に入った……の?」

 上手くあくびをかみ殺せていたと思っていたがバレていたらしい。それが分かった途端に喉の奥から外に出せと激しい自己主張がこみあげてくる。私は左手で口を押えながらうなずいた。




157: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:42:02 ID:KIP

 実は先日、我が家にちょっとした非日常が舞い込んできた。なんと、父の買った宝くじが当たったのだ。
一等ではないにせよ私にもおこぼれが来るぐらいの額だったため、欲しくても手が出せなかったハードカバーの本を数冊買ってもらうことに成功した。本当は新しい本棚を買おうと父と意気投合していたのだが、母の厳しい視線により即刻棄却された。

「面白いのは分かっていたんだけど、まさか前のシリーズが伏線になってるって思わなくて。読み終わった後についほかの本に手を出しちゃったんだよね。そのあと、書評ブログを漁ったりして……。あ、そうだ」

 横断歩道の信号機が赤になったのでスマホを開いてブックマークした記事を杏奈ちゃんに見せる。

「記事を探しているときに見つけたんだけど、これ! ほら、志保ちゃんのホテルだよ。温泉が見つかったんだって」

「へぇ……、ホントだ。あ、二階堂さんが着物を着てる。温泉だから、かな」

「静かな孤島で温泉につかりながら非日常に溶け込む、だって。素敵なキャッチコピーだね。志保ちゃんもがんばっているんだろうなぁ」
 
 私は空を見上げた。澄み渡った青空は私たちが過ごしたあの島の空にもつながっている。あの四日間で見た空はもっと青かったけれど、それでも、耳をすませば海鳥の鳴き声が聞こえてきそうな気がしてくる。




158: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:42:16 ID:KIP


「でも、よく温泉が湧きだすなんて分かったよね。掘るにもお金は必要だろうし、どうやったんだろう。占いとかかな」

「二階堂さんが占いに、頼るとは思えないけど」

 わらべ歌の謎を解こうと地質調査を依頼する人だ。自分から言っておいてなんだが、杏奈ちゃんの言うとおりだと思う。

「じゃあ、偶然かなぁ」

「偶然で済ませるのは名探偵らしいとは思いませんが」
 
「うっ。そう言われると」

 いたいところを突かれて言葉を詰まらせる。杏奈ちゃんがクスリと笑った。
 そのまま歩き出そうとして、二人して立ち止まる。そして背後から聞こえてきた声に勢いよくふり向いた。




159: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:42:59 ID:KIP


「お久しぶりです、百合子さん。島ではお世話になりました。杏奈も久しぶりね」

 耳に馴染む懐かしい声。青い空が私たちをあの日に連れて行ってくれたのか。驚きを隠せない私たちを前にして、悠然と微笑む志保ちゃんがそこにいた。

「どうして、志保がここに」

「そんなの私の服装を見ればわかるんじゃないかしら」

 そう言って志保は髪をかき上げた。袖口に水色の線が二本入った半袖の白いワイシャツに水色のネクタイ。そして、シャツの胸元に刺しゅうされた金色のMの文字。私と杏奈ちゃんが週に五日は目にする服。

「今日から杏奈たちの学校にお世話になることになったの。よろしくね」

 私は口をあんぐりと開けていた。しかし、すぐに杏奈ちゃんは志保ちゃんのもとへ歩み寄って彼女の空いた手をぎゅっと握った。

「これからも、よろしく……ね」

 志保ちゃんは照れ臭そうにうなずいた。




160: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:43:18 ID:KIP


「でも、どうして急に転校なんて。それにホテルはどうしたの。忙しいんじゃないの」

 志保ちゃんを私と杏奈ちゃんで挟む形で歩き始める。

「名探偵の百合子さんなら何か思いつきませんか。お二人にも突然幸運が降ってきたんですよね」

「それじゃあ、私たちのラッキーな出来事も島で温泉が見つかったのも志保ちゃんが転校してきたのも」

「ここまで役者が揃っているんです。足りない人間を考えたら仮説の一つぐらい思いつくんではないですか」

 志保ちゃんは汚れ一つない通学鞄から口の空いた封筒を取り出した。

「ホテルに送られてきました。奥様にはすでにお見せしています」

 渡された封筒に送り人の名前はなかった。中には紙が一枚だけ入っている。開いてみるとパソコンで印字された文字が整然と並んでいた。




161: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:43:48 ID:KIP


「無視しておいてもいいのにこうやって義理を果たすなんて、おかしな人たちですね」

 志保ちゃんは困ったような笑みを見せた。杏奈ちゃんが私の隣へきて手紙を覗き込む。

「……志保ちゃんはあの島から出たかったんだ」

 先に読み終えた私は封筒と一緒に手紙を杏奈ちゃんに渡した。

「そういうわけではないです。あの島での生活に不満はありませんでしたし、奥様のもとで働くことは有意義でしたから」

「でも、歌織さんたちはみんなにお詫びをしたんでしょ」

 杏奈ちゃんが手紙を折りたたみながら志保ちゃんの顔を見た。




162: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:44:33 ID:KIP

 手紙には歌織さんたちの言葉が綴られていた。歌織さんたちが探している財宝があると勘違いし迷惑をかけてしまったこと、二階堂さんに余計なことを話させてしまったこと、そして私と杏奈ちゃんを巻き込んでしまったこと。
 そのお詫びとして、私たちが喜ぶ出来事を送ったと書かれていた。つまり、私の父が宝くじを当てたのも、杏奈ちゃんの喫茶店や二階堂さんのホテルが繁盛したのも歌織さんたちが手を引いたことだというのだ。
 それなら、志保ちゃんが私たちの学校に転校して来たのも、志保ちゃんが喜ぶ出来事と考えたのだが。

「……奥様に言われたんです。自分の役割を見つけなさいと」

 目の前をトラックがゆっくりと通り過ぎていく。




163: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:45:32 ID:KIP

「私はあのホテルで奥様のお世話をすることが役割だと答えました。しかし、それは私が見つけたものではないと一蹴されてしまって」

 そういえば資料室で二階堂さんが同じようなことをぼやいていたことを思い出す。島の秘密を明かすことで二階堂さんの肩の荷が下りて、志保ちゃんを外に出す余裕ができたということだろうか。

「ホテルで働くと粘ったのですが、ご存じのとおり奥様は私には強気なので。それなら、杏奈たちと同じ学校に通いたいとお願いしました。
でも、不思議なんです。ホテルを出ると決まって、自分の役割を探そうと考えるとワクワクしてきたんです。奥様みたいにホテルの経営をするにはどうすればいいんだろうとか、両親のやっていた地質調査ってどういうものなのだろうとか、杏奈みたいなパティシエールも面白そうだな、とか」

 志保ちゃんは目を細めて杏奈ちゃんを見て、そして、私に顔を向けた。

「私がこうやって前向きになれたのは百合子さんのおかげだと思います。最後まで探偵として事件に向き合った百合子さんの姿はとてもカッコよかったです。私も何かできることを探したいと思えました」

 志保ちゃんの言葉に恥ずかしくなり、つい顔を背けて空を見上げてしまった。




164: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:47:22 ID:KIP

 太陽がまぶしい。白い雲が青い空をのんびりと泳いでいる。
 お気に入りの推理小説の敬愛する探偵のセリフを思い出す。

 探偵の仕事は事件を解決するだけじゃない。

 またしても私はこの言葉に助けられたようだ。

「百合子さん、行きますよ」

 志保ちゃんの声で我に返ると二人はすでに横断歩道を渡り切っていた。
 私は二人に返事をして、アスファルトの海に架かる白い桟橋に足をかける。

 頭の上を大きな鳥が飛んでいった。

 私たちの新しい日常が始まる。




165: ◆U2JymQTKKg 21/03/17(水)23:50:56 ID:KIP

以上となります。
長いお話にお付き合いいただきありがとうございました。

こがねいろの正体は言及しませんでしたが、温泉が出たことでなんとなく察してもらえると思っています。

あと、少しだけ早いけど、百合子、誕生日おめでとう!

それでは、SS完結報告スレにあげてきます。




元スレ
http://wktk.open2ch.net/test/read.cgi/aimasu/1615892511/

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