1:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 18:22:23.11
ID:1dnQeO7k0
2:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 18:24:56.25
ID:1dnQeO7k0
前略
火星について初めての朝です。
待ちに待った、新しい生活の幕開けです。
「……ん……」
さっきまで黒だったはずの視界が白に塗りつぶされている。まぶたを閉じているはずなのに、そんなことはお構いなしに私のことをまぶしい日差しが私の目の中に飛び込む。
「ズルいですよ……そんなの……」
私は太陽に文句を垂れながら重い重い眼を開ける。見慣れない天井。私は今、アクアにいる。そして、ARIAカンパニーの三階部分にいる。私は起き上がって外の景色を眺めた。丸形の窓ガラスから、あんなに遠く離れている太陽の光を反射して、キラキラと輝く海面が見える。そのずっと奥には、見慣れない水平線。それはどこまでも続いていて、遠くの方になるにつれて空との境界線があいまいになり、まるで空と海が溶け合っているように見える。
3:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 18:30:06.30
ID:1dnQeO7k0
「……写真、写真」
私はこの風景を写真に収めようとベッドから降りようとした。それと同時に声。
「にゅ!」
「はわ!?」
私がベッドから降りようとした瞬間、いつの間にか部屋にやって来た猫さん、つまり、アリア社長が何か布を持ちながら立っているのに気が付いた。
「おはようございます、アリア社長。どうしたんですか?そんなところに……」
私がアリア社長に尋ねると、アリア社長は私の言葉を理解して、手に持っていた布を渡してきた。火星猫はマンホームの猫と違い、人間並みの知能を持っているらしい。さすがにしゃべることは出来ないみたいだけど、人間の話していることを理解しているのだそうだ。
「これ、なんです?社長?」
昨日知った話だけれど、水先案内人は青い瞳の猫をアクアマリンの瞳と呼んでいるらしい。アクアマリンは昔から海の女神として航海のお守りとしていたそうだ。そんな伝統がこのネオ・ヴェネチアでも続いており、水先案内人を経営する人たちは、アリア社長のような瞳の青い猫をお店の象徴にして安全を祈願している。
そんな話など全く知らなかった私だけれど、アリア社長のことを「アリア社長」と呼ぶことに早くも慣れてしまった。「社長」の響きも何だか可愛らしく思える。
4:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 18:36:04.09
ID:1dnQeO7k0
私はアリア社長から布を受け取ると、その布を広げてみた。
「わぁ……!」
アリア社長が渡してきた布は、ARIA1カンパニーの制服だった。
「かわいい……」
私はその制服をベッドに広げて、全体を見渡す。スリットの入ったセットアップで、セーラーカラーで真ん中に大きな青いリボンタイ。真ん中に大きなマークが描かれている。そしてARIAカンパニーの名前が入ったセーラー帽。さらに、青地に黄色い施しがされている手袋とぷっくりしたかわいらしいフォルムのハイカットブーツが一組。
「これ、制服ですか?」
私はアリア社長に尋ねた。
「ぶいにゅ」
アリア社長は首を縦に振りながらそう答えた。
「さっそく来ちゃいましょうっ!」
「にゅ!」
「あ、なんだか恥ずかしいからアリア社長は部屋の外で待っていてもらえますか?」
「にゅ~~~!」
5:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 18:40:12.66
ID:1dnQeO7k0
アリア社長が部屋から出ていくのを確認すると、私はパジャマを脱いで制服を着始めた。
「ぷはっ」
首の部分から頭を出すと、新しい服の匂いがした。それは、なんだか不思議に心をワクワクさせて、心踊る気分にさせた。姿見の前でしっかりと着れているかを確認する。最後に、いつものお団子ヘアーの上に帽子をかぶせる。
「えへへ」
自然とこぼれだす笑み。ニヤニヤが止まらない。毎秒ごとに実感する。私はもう、水先案内人なんだと。
「って、まだまだ見習いだけど……あ、そうだ」
私は起きてからずっとベッドに放置してあったカメラを取り、胸の高さまで持ってくると、鏡に向かってシャッターを切った。
パシャリ。
6:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 18:45:41.94
ID:1dnQeO7k0
「よしっ!」
私が写真を撮り終えると同時にアリア社長が部屋の中へと入ってくる。
「あ、アリア社長!」
「ぶいにゅ!」
アリア社長がこちらにジャンプしてくる。私はそれを受け止めると、鏡の前で一回転しながら、アリア社長に言う。
「どうです?こんな感じですけど」
「ばいちゃ~い!」
「本当ですか!?良かった~」
そしてもう一度ターン。それと同時に、開いていた部屋のドアの向こう、階下から何かの音が聞こえた。私はアリア社長を下すと、下へと向かった。
7:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 18:50:34.96
ID:1dnQeO7k0
ARIAカンパニーの二階部分は、普通の家で言うところのダイニングになっていて、キッチンや冷蔵庫、大きめのテーブルと椅子、そしてアリア社長専用のデスクなんかがある。キッチンでは、アイさんが料理をしていた。良い匂いがする。
「おはようございます!」
私が言うと、アイさんは料理の手を止めて振り向く。
「おはよう、藍子ちゃん。……あ!」
アイさんは私の姿を見ると、笑顔で言った。
「制服、似合ってるよ」
「あ、ありがとうございますっ!」
「どこかきつい所とか、ない?」
「はい、大丈夫です」
「良かった。なら良いんだ……さっ、じゃあ朝食にしよう?」
「はい!」
ダイニングテーブルに朝ごはんが並べられていく。
「いただきまーす!」
「召し上がれ」
8:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 18:55:00.61
ID:1dnQeO7k0
私は目の前にある目玉焼きにフォークを伸ばす。下に敷いてあるベーコンがカリカリに焼けていてとてもおいしそう。目玉焼きを半分に切ると、少しだけ緩い黄身が溢れる。私は真ん中に置かれているパンの籠からパンを取り、切った目玉焼きをそのパンの上に乗せる。私はこぼれないように、でも大胆にそれにかぶりつく。
「……」
私が朝ごはんと格闘していると、頬杖をついて私をずっと見ているアイさんと目が合った。私はなんだか急に恥ずかしくって、朝ごはんを食べる手を止めた。
「ど、どうしたんですか……?何か私の顔についてます……?」
私がアイさんに尋ねると、アイさんは「ふふふっ」と、少し子供っぽく笑って言った。
「ううん。ちょっと嬉しいだけだよ」
「は、はあ……?」
「ふふふっ。さあ、私のことは気にせずに食べて?」
「は、はい!」
9:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 19:01:02.47
ID:1dnQeO7k0
朝食を終えると、アイさんは私をARIAカンパニーの一階部分へと連れて行った。
「藍子ちゃん。ゴンドラに乗った経験は?」
「えっと、小さい頃に一度だけネオ・ヴェネツィアに来ていたみたいで、その時に乗ったらしいんですけど、あまり覚えていなくて……」
「そっか。じゃあ、まずは私のゴンドラに乗って、どういうものなのか体験してみようか」
「はいっ!」
私はアイさんのゴンドラに乗ることになった。
アイさんの乗るゴンドラは、白を基調としたシックな船だった。また、舳先にはARIAカンパニーのイメージカラーである青でもって線が入れられている。その真ん中にはこの海と同じ色をしたガラスのようなものが埋め込まれている。
アイさんはそれに乗り込むと、オールでもって船の向きを変え、船を乗るための場所にゴンドラを付けた。
「さあ、お手をどうぞ」
アイさんは舳先に足を置きながらも、その船乗り場に軸を置いて、私に向かって手を差し伸べてくる。私は差し出されたアイさんの手を取った。瞬間、私は強烈な思い出に襲われた。
10:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 19:06:46.96
ID:1dnQeO7k0
その思い出は、小さな頃、初めてネオ・ヴェネツィアでゴンドラに乗った時の記憶。もみあげから生えた二つの髪の毛の房が印象的な、とってもあたたかい手をしたウンディーネ。
「……どうしたの?」
アイさんの声が聞こえ、私は我に返る。
「あ、いえ……少し思い出して……」
私はアイさんに手を引かれ、ゴンドラに乗りこみながら言う。
「思い出したって?」
アイさんは私に尋ねながら舳先に両足をつけると、オールでもって漕ぎ始めた。私はゴンドラに配置されている椅子に座ると、アイさんが手を引いてくれた方の手、つまり左手を右手で握ってみた。
「はい。さっき、小さい頃に一度ゴンドラに乗ったって言ったじゃないですか」
「うん」
アイさんは極めて自然に船を漕ぐ。水が滑らかさを極端に発揮しているように見えるそのオールさばきは、アイさんの水先案内人としての力量を表していた。
「その時のこと、今の今まで覚えていなかったんですけど、アイさんの手を触ったら、急に思い出せたんです」
「へぇ、どんな思い出?」
11:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 19:10:56.41
ID:1dnQeO7k0
「もみあげから生えた二つの髪の毛の房が印象的だった水先案内人の方なんですけど、その人の手の温かさが、アイさんの手のあたたかさと似ていたんです。だから思い出せたんです」
「…………」
「ア、アイさん?」
私が思い出した内容を話し終わると、アイさんは驚いたような顔をしたまま、オールを漕ぐのもやめて、しばらく呆然としていた。そしてそのまま目を瞑ると、静かに息を吐いた。アイさんはしばらくした後に目を開いて、私に向かってほほ笑んだ。微笑んでいるアイさんの目の奥には、どうしてか悲しさのようなものが少しにじんで見えた。
「……それは、とってもすごいミラクル、だね」
アイさんは漕ぐのを再開すると、噛みしめるようにそう言った。
「はい。ミラクルかもしれません」
しばらくアイさんが漕ぐ船を体験した後、今度は私がゴンドラを漕ぐことになった。
12:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 19:15:07.47
ID:1dnQeO7k0
「じゃあ、試しにここら辺をゴンドラで漕いでみよっか」
「はい」
アイさんに示されたのは、先ほどのゴンドラとは違い、黒色をしたものだった。一人前、つまりプリマウンディーネが使うゴンドラはお客様を乗せるための船なのだが、両手袋と片手袋、つまりシングルとペアはこの練習用の黒いゴンドラを使うそうだ。
「よっと……」
舳先に飛び乗り、バランスをとる。ゴンドラから、年季が入った音がする。私はオールをしっかりと握り、漕ぎ始めた。船の側面についているロウロックを使って支点力点を作用させ、オールをスムーズに動かす。
「あらららら……」
しかし、まっすぐ進まない。左側にそれてしまった船体を直そうと、慌ててオールを逆方向に捌く。しかし、今度は勢いが大きすぎたのか、船がぐらぐらと揺れ始めた。
「あわわわわ……」
何とか落っこちないようにしながら再び漕ぐ。
13:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 19:21:05.50
ID:1dnQeO7k0
「よっしょ……ほいしょ……」
一体どれくらい時間がたったのか。蛇行を続けながらも、なんとか数メートル進んだ。その時、後ろからアイさんの声が聞こえた。
「オッケー!じゃあ、今度は船首をこっち側に向けて漕いでみようか」
「は、はい!」
私は船の先をARIAカンパニーの方へ向けようと左側にバックした。
「あれれ」
しかし、思ったように曲がれずにまっすぐ後ろに進んでしまう。
「やっ!はっ!」
気合を入れて、今度こそ曲がるように漕いだつもりだったが、それでも船が曲がる気配はなくただまっすぐバックする。気が付くといつの間にかスタート地点に戻ってきてしまった。
「……ア、アイさん……」
私はアイさんを見上げる。アイさんはしばらく黙った後、口を開いた。
「うん。大丈夫!」
「へぇ?」
14:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 19:25:22.19
ID:1dnQeO7k0
てっきり怒られてしまうかと思っていたから、変な声が出てしまった。
「全然良いよ。良い感じだよ、藍子ちゃん!」
「そのままバックしちゃったのにですか……?」
「うん。私が初めてゴンドラを漕いだ時よりも全然上手だよ。これならすぐに上達するね」
「ほ、本当ですか……?」
「本当本当。恥ずかしいけど、私の一番最初の漕ぎっぷりは、それはもう見ていられないほどだったんだから。第一、ちゃんとバランスをとって船を操縦できるっていう時点で素質十分なんだから!……これから一緒にがんばろ?」
アイさんはそう言って、私に手を差し出してくれた。私がその手をつかむと、アイさんは私を陸地へと引っ張ってくれた。やっぱりその手はどこかあたたかくて、私もこんなあたたかな手を差し伸べられるような水先案内人になりたいと思った。
「……はい!頑張ります!素敵なウンディーネになれるように!」
私はそうアイさんに返事をした。あたたかな手を差し伸べられるような水先案内人になりたい、じゃだめだ。あたたかな手を差し伸べられるような水先案内人になるんだ。絶対。
15:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 19:30:04.16
ID:1dnQeO7k0
内心息巻いていると、アイさんはそんな私の心を知ってか知らずか、私の顔を見て微笑みながら口を開く。
「うん。その意気、だよ。じゃあ、さっそく、一番重要なことから教えようかな」
「はい!」
「一番重要なのはね、この船が流されて行かないように、このバリーナって言う杭に括りつけることなの。この作業をしておかないと、あっという間に流されちゃうんだから」
「ふむふむ……」
「それとね……」
こうして記念すべきアクアでの一日目は幕を閉じました。操舵技術はもちろんまだまだだけど、これからアイさんと一緒に成長していきたいです。
そして、いつかプリマになったら。その時は、一番最初の「お手をどうぞ」の時から、お客様にあたたかな気持ちになってもらえるような、そんな水先案内人になれるよう頑張ります!
16:
◆jsQIWWnULI 2020/06/27(土) 19:34:19.67
ID:1dnQeO7k0
今回はこれでおしまいです。次もよろしくお願いします。
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